ャ説家の眼には小説であり、詩人の眼には詩であり、劇作家の眼には戯曲である――といふことこそ、一層切実に真理を物語る言葉ではないでせうか。
人生のうちには「劇的な部分」と「劇的ならざる部分」とがある――といふ説は、一応尤ものやうでありますが、これまた、「劇的」といふ意味から決めてかゝらなければなりません。
われわれは、既に「美しい」といふ言葉について、多くの疑ひをもつてゐる。「芸術的な美しさ」は「醜いもの」のうちにさへあることを知つてゐながら、何故に、芸術的作品たる戯曲の「劇的」であるか否かを論ずる場合に、恰も一人の女が、一輪の花が、「美しい」か否かを評するやうな評し方をするのでせう。「詩的」といふ言葉が、ロマンチック乃至センチメンタルといふ語に近い意味に於て用ひられる時、此の言葉は、決して「詩」の「美しさ」を伝へる使命は果し得ない。これと同じ理由で、「劇的」といふ言葉が、若し、従来われわれが使つてゐるやうな意味に用ひられるならば、「劇的」であることは、必ずしも「戯曲」の本質的価値を高めることにはならないのであります。近代の小説が「小説的」でなくなつたと同じやうに、「劇」が、或る意味で、「劇的」でなくなる時代が、そろそろ来やうとしてゐるのではありませんか。
以上の議論は、決して所謂「劇的」な戯曲を斥けるためではありません。たゞ従来、戯曲の評価が屡々そのために誤られ、「劇的な境遇」が、戯曲の生命であるかの如き偏見を生み、所謂「劇的感動」の大小を以て、直ちに戯曲の本質的な「美しさ」が云々されがちであつた。これは演劇そのものゝ発達を致命的に阻止してゐた。これだけのことが云つて置きたかつたのであります。
今日まで、どうしてかういふ問題が等閑に附せられてゐたか、どうして、優れた劇評家や、演劇学者が、此の点を指摘しなかつたか、寧ろ不思議なくらゐであります。
恐らく、希臘劇以来、天才名匠の手に成つた戯曲が、此の「劇的」と云ふ一点で、多くは、「及第点」に達してゐるために、或は、その「劇的」なる「印象」が、「芸術的」なる「感銘」によつて高められてゐるために、その区別がはつきりつけられなかつたかも知れません。然し、近代に至つて、「メロドラマチック」といふ語が既に冷笑を含んだ意に用ひられだしたではありませんか。「劇的」といふ言葉から、「お芝居式」といふ語を区別するやうになつたでは
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