ッる脚本の位置といふ問題は、今日まで殆ど異論がありません。たゞ一つ、ゴーヅン・クレイグの演劇論が、文学として存在する戯曲の運命を予言して、これを将来の舞台から駆逐しようとしてゐます。然し、これは一つの理想論であつて、今は問題にしなくともいゝ。然しこのことについては勿論、後に述べるつもりであります。
 それでは、演劇に於ける脚本の位置はどうかと云へば、それは音楽に於ける楽譜である。楽譜の演奏が音楽と呼ばれるやうに、脚本の演出が演劇と呼ばれる。従つて演劇の価値は、脚本の価値によつて根本的に左右されるものであります。此の論理は一応、註釈をつけて置く必要があります。といふのは、如何に優れた脚本でも、演出次第ではつまらない演劇になるではないかといふ反駁が出ないとも限らないからであります。然し、此の反駁は更にかういふ反駁を受けはしませんか。即ち、それならどんなに低級な脚本でも、演出さへ巧みであれば、優れた演劇になり得るか。さうは行きません。そこで、やつぱり優れた演劇とは、優れた脚本の優れた演出といふことになります。然し、優れた演出といふことは、結局脚本を完全に舞台の上に活かすといふこと以外に何もないのですから、脚本の演出は、或る程度以下のものであることは許されない。つまり、さういふ演出は、演出と称し得べからざるものであると認めなければならないのです。
 これで、脚本の価値が、演劇の価値を根本的に左右するといふ理由が、判然したらうと思ひます。
 脚本の価値が、演出を離れて存在し得るに反し、演出の価値は、脚本を離れて存在し得ない。これは、近代演劇運動の決定的な発見であります。
 希臘劇、シェクスピイヤ時代の演劇、中世の秘蹟劇、……これら過去の演劇は、今日何によつて、その光輝と偉大さとを知るかと云へば、たゞその時代の脚本、即ち戯曲を通してこれを知るのみであります。その演出が、果して、その時代の演劇に於て、どれだけの位置を占めてゐたかは、殆ど知る術がない。従つてわれわれは、その時代の演劇が、どれだけ演劇としての芸術的な価値を有つてゐたかを云々するにしても、その演出が戯曲の生命を完全に伝へ得たものとしての想像に過ぎないのです。
 それならば、将来の演劇はどうか。これは、誰も何んとも云ふことは出来ません。ゴーヅン・クレイグの理想が実現するまで待たなくてはなりません。しかし、今日、最も新しい
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