の手がこれに伸びてはゐない。それは既に「利用」ですらもないのである。
これに反して、中世以降の欧洲各国では、やうやく、封建的な専制政治が軌道に乗りはじめ、王侯の権力と民衆の神話とが縁を切り、社会的階級が上下共通の生活と感情とを絶滅させた。かかる時代に於て、演劇は民衆の被治者としての心理を反映し、政治が民衆の欲求を制限すればするほど、演劇は反撥し、ふて腐れ、卑屈となつた。
たまたま、演劇を愛する王侯によつて、作家、俳優などの一部が個人的な好遇を受け、そのことが演劇の隆昌と錬磨に役立つたことはあるけれども、今日から見れば、それは決して演劇そのものの本質的向上を齎したとは信じられない。ある意味に於ける演劇の不健全性がそこに胚胎してゐるからである。モリエールの如き大作家ですら、その作品の多くにいくらかの媚態と有閑性をのぞかせてゐるではないか。
一般に演劇に加へられる非難は、当時から既に各所に現はれてゐた。主として、宗教の立場からであつたが、それは必ずしも演劇が嘗て密接な関係にあつた宗教から離れ、その教義を無視し、その風習に従はないといふ理由からだけではなく、権勢と結びついた聖職者のいくぶん偽善的な趣味と、演劇自体のもつ可なり露悪的な傾向との摩擦であつた。俳優は、次第に、社会から特別な眼をもつて視られるやうになつた。愛されつつ軽んぜられるといふ結果は、俳優にも世間にも罪はあつたが、主として、政治的権力がこれを遇するその方法に大半の罪があつたと云へるであらう。
わが国に於ては、能狂言が主として貴族乃至武家階級の、歌舞伎が主として民衆の生活を地盤として発展し、今日の内容と形式が整へられたことは周知の事実である。
能楽は文字通り権勢の庇護の下に育成され、比較的高い教養と洗錬された趣味を反映し、指導階級としての威信と自己批判とに常に応へつつ、あの荘重、幽玄、高雅、鷹揚、闊達、といふやうな雰囲気を創造するに至つたのであるが、歌舞伎に至つては、世態人情の詩的な描写と、庶民道徳の熱烈な鼓吹とが、卑近ではあるが巧緻を極めた舞台技術と相俟つて渾然たる劇的美を確立するに至つたとは云へ、その美の要素たるや、あくまでも、封建治下に於ける市井人の生活感情に根ざし、侠気、意地、忍従、犠牲、隠遁、復讐、などの心理的色調を主とすることによつても察せられる通り、厳粛だとすれば苛酷に過ぎ、倫理的だとすれば普遍性を欠き、その優雅繊細も、豪快洒脱も、常にどことなく反抗と見栄と耽溺とを気分としてのぞかせてゐることは争はれない。
歌舞伎はもとより民衆の慰楽として生れた。民衆の求めるもの、民衆の手によつて作り得るもののすべてが、概ね何らかの形でそこに盛られてゐた。幕府政治が、よし下層民衆を無力視してゐたにもせよ、社会現象としての都市演劇の動向に無関心な筈はなかつた。演劇に対する多くの禁令がこれを証明してゐる。禁令そのものは、もちろん、行政的処置の一端を示すにすぎないが、かかる禁令を発するに至つた動機は、その当否は別として、その時代に於ける演劇の実情と為政者の演劇なるものに対する根本態度とを窺ふに足るものだと思ふ。
先づ日本演劇の起源と発達の径路とをたづね、この間に於ける政治との交渉を詳さに調べて見ることは、今日の演劇の在り方を理解するひとつの道に違ひないけれども、それはこの小論の企て及ばないところである。従つて、ごくおほざつぱに、演劇史上の記録を拾つてみることにする。
平安朝の末から鎌倉時代にかけて、田楽と呼ばれる演芸(田植の時に農村で行はれた慰安行事がもとの起りで、これが神事や仏事の余興として広く用ひられるやうになつた)がわが国に於ける演劇の最も原始的なものであるが、北条高時はこれを非常に愛好し、特別な庇護を加へ、自らも舞台に立つといふ熱心ぶりであつたと伝へられる。当時、京都の四条河原に大仕掛の勧進田楽が催され、観衆が殺到して遂に桟敷が落ち、多数の死傷者を出した。劇場施設に対する為政者の注意が恐らくこの頃から払はれたらうと推察される。田楽と前後して、猿楽なるものの発達をみた。これは今日の能楽の前身とも云ふべきもので、大和春日神社の御事を勤めてゐた猿楽四座のうち、観世家は特にその道の天才を生んだが、将軍足利義満の保護によつて内容形式ともに整つた芸術にまで成長したのである。かうして猿楽は室町将軍家の式楽に採用され、遂に貴族武家階級の専用娯楽となつたことは注目に値する。
猿楽はもと滑稽な所作、猥雑な筋を演ずるものであつたが、貴族武家の生活、趣味に合致するやう次第に洗錬を経たのであつて、その間、一は能の厳粛典雅な悲劇的典型と、一は滑稽洒脱な狂言の喜劇的典型とに分れて今日に及んだのである。
豊臣秀吉の時代には、京の四条河原附近には、諸種の演芸興行物の集中をみた。慶長年間
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