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が、要するに、その職能を原則的に示せば、「先づ脚本の解釈に標準を与へ、その精神を具象化するために最も有効な機械的設備を考案し、その製作を監督する一方、俳優相互の有機的関係を誘導規整することによつて舞台全体の統一調和を計る」にあるのである。
フランス語で、〔Mise en sce`ne〕 なる語は、しばしば、「舞台装置」なる狭義の意に解される例もあるが、これは、装置の考案が、「演出」の主要な部分を占める場合に限られるやうである。
然しながら、現在、日本の商業劇場に於いても、興行政策として舞台監督(演出者)の名を、作者のそれと並べて出し、装置家の名も挙げてゐるくらゐで、ある舞台が甲の「演出」であるといふことは、乙の「演出」と異る何物かを予想させ、また、事実、さういふ結果を示すと考へて差支ないのであつて、かかる地位を占める以上、当然、演出家はその「演出」の「独創性」によつて、完全に著作権法の保護を受け、如何なる契約によるにもせよ、少くともその人格権は飽くまでもこれを主張すべきものであると、私は信じる。
即ち興行者が、某演出家にある脚本の演出を依頼した場合、雇傭関係によつてその興行権を興行者が所有すると否とに拘はらず、その興行者は、以後に於ける同一脚本の同一上演に当り、該演出家の許可を得べきはもちろん、「ソノ同意ナクシテ」当人の氏名を「隠匿する」ことはできないのである。況んや、多少の「改竄」を加へて、他人の名義とするなどは、立派に著作権侵害である。
序に、フランスに於ける面白い判例を挙げれば、初演の際、某演出家にその脚本の演出を委ねた作者は、その脚本を、別の興行者の手によつて再演せしめる場合、同じ演出によるとしても、その演出家の同意を得る必要なく、また、作者として金銭上の義務を負はなくてもよいといふのである。もちろん、同意を得る必要がないだけで、この演出家の氏名を発表すべきであらうが、この点、興行者と演出家との関係、作者と演出家との関係に、何等かフランス流な解釈がひそんでゐるやうに思はれる。
要するに、演出家に限らず、一般著作者の人格権に関しては、これを法文によつて詳細に規定することは困難であるとされてゐるので、その場合場合に応じて、有効な判例を残すべきものであらうと思ふ。
それ故、著作権者対興行者の問題は、十分に隔意なき両者間の折衝によつて、もつとも合理的な協定に到達する以外、進んで、法廷に黒白を争ふことも亦、将来に禍根を残さぬ明朗な態度であると同時に、わが国の文化水準を多少とも高めることに役立ちはせぬかと、私は考へる。
序に述べておきたいことは、著作者と出版者の間には、現在、さほど面倒な問題は起らぬやうであるが、興行者(職業的なると否とを問はず)との間には、絶えず悶着が繰り返され、多数の劇場乃至劇団は一種の著作権侵害常習犯の観があるのである。これは無論、当事者の法律的知識が足りないところからも来てゐるが、第一に、劇場組織が合理化されず、興行主と著作者とを連結する機関が完備してゐないのである。従つて、興行者自身が、実は知らぬ間に、著作者の権利を蹂躙してゐるやうな場合が多い。畢竟、責任者たるべき某々使用人の怠慢乃至単純な忠義立てから生じた結果なのである。そこで、「すべきことはする」といふ内外に向つての興行者の紳士的宣言は、必ず、この種の紛争を少くし得ると思ふ。これまた、日本の文化のために是非、興行者側の反省を促したいものである。(一九三四・三)
底本:「岸田國士全集22」岩波書店
1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「東京朝日新聞」
1934(昭和9)年3月14、15、16、17日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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