な手提鞄を提げた紳士風の男がはひつて来る。
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男 御免。
底野 (寝転んだまゝ)どなた?
男 奥さんはいらつしやいますか。
底野 まだをりません。
男 では、失礼ですが、御主人にちよつと……。
底野 どうぞお上り下さい。
男 いや、こゝで結構です。
底野 どういふ御用ですか。
男 実は、わたくしは、かういふものでございますが……。(名刺を出す)
底野 口で云つて下さい。
男 はい。名前を申上げても、無論、御存じないわけでございますが、実は、わたくし、もと満鉄に勤めてをりましたもので、故あつて最近職を退きましたにつきましては……。
底野 就職のことなら、ちよつと心当りはありませんがね。
男 いえ、さういふわけではございませんのですが、その、突然のことでもあり、家に蓄へはございませず、子供は五人、これがまた至つて幼少でございまして、前途甚だ不安を感じますやうな次第で……。
底野 僕のところでは、誰にも一切寄附はしない、満洲軍にさへ町内の慰問資金を断つたくらゐですから……。
男 いやいや、決して寄附施しの類《たぐ》ひをお願ひしに参つたのではございません。実は、さういふ次第で、わたくしもまだ老齢と申すには間がございますのを幸ひ、大いに勇を鼓して、断然、街頭に進出する決心をいたしました。それにつきましては、何か他人の気附かない職業、またその職業の種類は同じでも、何処か一点特色のある内容を選ぼうと思ひまして、いろいろ苦心いたしました結果……。
底野 名案がありましたか。
男 と申しますのは、世間普通に行はれてをります行商にいたしましても、やれ文房具であるとか、売薬の類であるとか、これは一向珍しくございません。わたくしが伺ひます一時間前に、他のものが伺つてゐるかもわかりません。これでは労して益のない道理でございます。
底野 僕のところは、かう見えて、なんでも揃つてますから、今、差し当り欲しいものはないんですがね。
男 ちよつとお待ち願ひます。そこで、わたくしは考へましたんでございます。これはひとつ、他の行商人が持つて歩かないもの、殊に、皆様が御近所では容易にお手にはひらないもの、或はまた、形は同じでも質の違ふもの、値段がお安くて品がよいもの、かういふ按配に目先を変へて一軒
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