潜ませてゐる。

 お互に恋愛のできないやうな男女が、なんの必要から友情関係を結ぶのか、筆者にはさつぱりわからんのである。異性の友だちに求めるものはなにか。与へるものはなにか。肉体的交渉は別として、恋人同士が与へ合ふもの、夫婦同士が与へ合ふものと、どこが違ふのか。違ふとすれば恐らく、「それとはつきり云はずに」与へ合ふところ、ただそれだけである。
 しかし、それは正《まさ》しく、近代青年男女の好みに適つた「恋愛遊戯」の一形式に相違ない。その意味に於いて、異性間の友情と称するものを筆者は興味深く感じてゐる――云ひ換へれば、凡そ、君子の交りから遠いものであるといふ意味に於いて。
 そこで、今、二人の男女を仮定する。二人は、何かの動機で交際をはじめる。一緒に散歩をし、一緒にお茶を飲み、一緒に映画を見物し、一人が病気になれば、一方は見舞に行き、又は見舞の手紙を書き、彼は、彼女に一寸した贈物をし、彼女は、例へばそれが手袋なら、その次に会ふとき、それを手にはめて行き、夜遅くなると、彼は彼女の家の門口まで自動車で送り、彼が就職口を探してゐれば、彼女は伯父さんに彼の話をしてやり、彼女が母親と喧嘩をした話をすれば、彼は耳を傾けてその話を聴き、二人は、互に身の上話をし、抱負を語り合ひ、識つてゐる誰れ彼れを、善く云ひ悪く云ふのである。
 彼が、男の友だちは酒を飲んでいかんと云へば、彼女は、女の友だちは嫉妬深くて嫌ひだと云ふのである。
 この男は、必ず、女のやうに科《しな》をつくり、この女は、概ね、男のやうな言葉を使つてゐる。彼等は、必ずしもそれがために意気投合したのではないが、二人の「友情」を保つ上に、この努力が必要なのである。つまり、彼等は、互にできるだけ「性的示威」を慎まねばならぬと心得、一面意識的に「反性的示威」を試みてゐるのである。
 かくの如き滑稽な例は、今日、やや増加の徴候がある。そして更に滑稽なことには、この「反性的示威」が、往々意外にも、「性的示威」と同一結果を生むに至るのである。その場合、男女間に於いて、「性的役割」の部分的転換が行はれることはいふまでもなく、モボとモガのあるものは、その典型的な標本であらうと思はれる。
 この種の男女は、一般の異性に向つて、極度に、露骨に「性的示威」を行ひながら、一方、特定の異性に対しては、努めて「反性的示威」を試みる異常な風習を流行させたが、この風習はやがて、発生の起因から遠ざかつて、近代的コケツトリイの一形態を成すものと思はれる。これを「性の反性的表示」と名づけてもいいし、「恋愛の友情化」と呼んでも差支へあるまい。
 ここで、恋愛心理の歴史的考察を加へれば、男女間の「性的要求」は、従来の何人も予想しなかつた複雑さを加へ、凡そ恋愛が、異性のうちに異性を求める関係は、反射的に二重の作用を行ふ時代に到達したのである。即ち、男も女も、それぞれ両性を兼ね備へ、男は、個有の「性」によつて、女の個有の「性」に対し、その「女性的副性」によつて、女の「男性的副性」に対する新法則が生れたのである。
 故に、これからの男が、恋愛に於いて、単なる男性であることは、結局、女の要求を全部的に満足せしめ得ないことになる。
 この事実は、将来の社会に於いて、異性間の「友情」を、ある程度まで可能ならしめることに役立つであらう。少くとも、その公算を多からしめるわけである。
 試みに、男女関係を図式で示せば、左の通りである。
[#男女関係の図(fig44590_01.png)入る]



底本:「岸田國士全集21」岩波書店
   1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「時・処・人」人文書院
   1936(昭和11)年11月15日発行
初出:「婦人公論 第十六年二月号」
   1931(昭和6)年2月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月20日作成
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