いふ言葉で片づけることは如何であらう。
少くとも、現在では、友情以外なにものもないと断言し得る間柄でも、全く例外の場合を除いては、どちらかから、恋愛的感情をもちはじめる予想は十分につくのである。一方のさういふ感情は、自然、ある形を取つて相手の感情に呼びかける。それに応じるか応じないかは別問題である。純粋の友情は、その瞬間から複雑な心理的葛藤を伴ひ、そこから恋愛の歴史が始まるのである。
全く例外の場合とは、どんな場合かといへば、ここに、非常に女性的な男性と、非常に男性的な女性とを想像する。その非常に女性的な男性が、たまたま女性らしい女性と友情関係を結んだとする。また、非常に男性的な女性が、男性らしい男性と友だちになつたとする。この二つの場合は、普通の友情が最も保たれ易い場合であると考へて差支へない。つまり、この場合は、最も恋愛の生じ難い場合である。
凡そ人間に限らず、あらゆる動物は、異性に対つて、意識的無意識的に、「性的示威」を行ふものである。この「性的示威」が、必ずしも恋愛感情の表示にはならないが、相手のそれを目標として行はれることは明白で、これが、異性間の牽引力乃至は魅力となり、その反応の結果が、禽獣にあつては、直ちに利用されるのであるが、人間は、その点、なかなか儀礼を心得てゐる。
友情あるのみと自称する異性同士が、意識的に「性的示威」を行ふなど、以ての外であるが、これは恐らく、慎むことが至難の業であるのみならず、無意識的に行ふそれに至つては、自ら保証の限りではない。
相手が若しも、それを感じないとすれば、ここに重大な問題が起るのである。曰く、彼乃至彼女は、一方が性的魅力に欠けてゐるか、さもなければ、一方が性的感性に於いて、不具者なのである。
恋愛感情を制するといふことは、恋愛を感じないといふことではない。多少とも恋愛的感情をもつといふことは、普通、友情とはいはないのである。
そこで、異性を友だちにもつといふことは、その間に恋愛の発生を予想しなければならず、それが若し、何等かの理由によつて表面に現はれずに済むとしても、その関係は極めて不自然で、必然的にある種の「悩み」を抱き合ふことになる。その「悩み」を、互に享楽する傾向は古来、男女関係の最も進化した一面であり、軽重濃淡の別こそあれ、総ての人間が、この種の「悩み」を、果敢ない「夢」として心の一隅に
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング