も文句を云はない女、それは、生活を恐れない、いゝ道連れだ。
――ところで、この頃はもう、私は小さな子供みたいにしてゐる。私はマリネツトに云ふ――お前には、母性の本能をすつかり満足させてくれる申し分のない子供が出来たんだよ。その子供は、先づ、なんでも赦して貰ひたがつてるんだ。仕事をしないでもあんまり叱らないでくれつていふんだ。さうして、全然なんにもしないでゐられゝば、いつまでも喜んでるんだ。
マリネツトは私にすべてを与へてくれた。私の方は、彼女にすべてを与へたといへるだらうか! やつぱり、私のエゴイズムはそつくりそのまゝ残つてゐるやうな気がする。
私が彼女に、「率直に云つてくれ」と云ふ時、彼女は私の眼の色で、どこまで本当のことを云つていゝか、といふことをちやんと読みとる。
これは、私が愛してゐると、確信できる唯一の人間だ――それから私自身と。が、まだ私自身の方は……。私はよく、自分で自分に嫌悪の蹙め面をさせることがある。さうだ、彼女を私は非常に愛してゐる。しかも、決して私が見損つてゐるわけではない。
恐らく、彼女は私のことが不安になつて、そして、自分でかう云ひきかせたのだらう――「自分を救ふ道はたつた一つしかない。あの人を絶対に信頼することだ。さうすれば、決してやり損ふことはないだらう。知らないで万一やり損つても、あの人が教へてくれるだらう。さうして赦してくれるだらう」と。
時々、彼女が子供たちを見守つてゐると、実に子供たちに近く見えて、まるで子供たちは彼女の二本の枝みたいだ。
彼女の心はその眼に表はれてゐる薔薇色の心だ。太陽のやうな心だ。
彼女の眼の底には、網膜の上には、愛情にも曇らされない一つの鏡、一つの小さな部分があるのだらうか。そして、そこには私も美しくは映らないのだらうか?
彼女の剥き出しの腕には涼味がある。
私にはマリネツトがある。私はもうなんにも要求する権利はない。
彼女のそばでは、私は、「俺の作品は……」とか、「俺の特質は……」とか、「俺の才気は……」とか平気で云へる。そして、少し躊躇しながら、「俺の才能は……」とも云へる。彼女はかういふ云ひ方を実に自然に受け取つてくれるので、私の方でも、ちつとも気はづかしさを感じない。
彼女が私をよくしてくれたかどうか、それははつきりわからない。然し、見たところは確かによくなつた。
彼女が私のおかげでひどい貧乏をするかもしれないと思ふと、胸がつまるやうな気がする。
然し、私は大急ぎでかう考へる。――「彼女はきつと、立派にそれに堪へてくれるだらう。さうして、ますます俺を愛してくれるだらう」
彼は仏蘭西に生れ、作家となり、しかもその作品のうちで、一度も「姦通」を描かなかつた珍しい人物である。恐らく、この種の空想は、彼には堪へられないものであつたに違ひない。ある作家について、彼は軽蔑の口調を以て云ふのである――妻に裏切られても傑作が書けさへすればいゝと思つてゐるやうな男――と。
しかし、その彼も屡々夫婦生活の危機を問題とした作を書いてゐる。『日々の麺麭』や『ヴエルネ氏』の如きは、それである。
『日々の麺麭』の女主人公マルトには、たしかに彼の祈願が籠められてゐる。
「……アルフレツドを騙さうなんて気は、毛頭ありませんわ。それにしても、決して騙さないつてことが確かにわかつてたら、それやつまりませんわ、あたくし……」
これが美しい人妻マルトの言葉なのである。夫の友人で、彼女を讃美する男に対する婉曲な防禦である。
彼女はかうも云ふ――
「永久に節操を守るなんていふ誓ひを立てたくないんですの。真面目な女でも、あたくしは、時として自分の抵抗力を疑ふ真面目な女ですわ……」
作家ルナアルの「女性」は、彼の「言葉」の如く陰翳に富み、男心の隅々までを知り尽してゐる。
妻マリネツトの面影が、そのまゝこのマルトの中に映つてゐるかどうかは疑問である。恐らく、本質的に別個なタイプのやうであるが、彼が女性、殊に、「自分の女」に求め、望むものは、彼のエゴイズムと、脆さに対する趣味との惨憺たる摩擦から生ずるものであつて、彼の愛妻心理も亦尋常一様なものではないにきまつてゐる。(「婦人公論」昭和十年十二月)
底本:「岸田國士全集22」岩波書店
1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代風俗」弘文堂書房
1940(昭和15)年7月25日発行
初出:「婦人公論 第二十巻第十二号」
1935(昭和10)年12月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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