ost〕 です。彼はシェイクスピアのことをそのイギリス滞在中の感想記“Le Pour et le Contre”中に書いてゐます。この書名は、イギリスにはいゝところもあれば悪いところもあるといふやうな意味で、「英国是非」とでも訳しませう歟。それは一七三三年のことです。その翌年、例の Voltaire が、――シェイクスピアを大速力で読んだものと見えまして――、矢継早にシェイクスピア評論を書き始めました。で、フランス人一般がはじめてシェイクスピアに注意を向けるやうになりました。ヴォルテールは、御承知のやうに、文学的にもまた思想的にも、一種の革命家でありましたから、そのシェイクスピア紹介の勢ひは、いはば今日の新人がマルクスを日本に紹介するのに似てゐたらうと思ひます。彼れのシェイクスピアに関する解釈、理解に対しては大分問題がありますが、とにかく彼は口を極めてシェイクスピアを賞讃してゐるのです。そして自分もシェイクスピアの作に摸して、多くの脚本を発表したのみならず、おれはシェイクスピアから影響を受けたと自白してもゐるのです。そしてヴォルテールすらもシェイクスピアの影響を受けたといふことはフランスの舞台芸術に一種の革命を齎した所以であります。
 ヴォルテールについで Ducis(デュシス)といふ作者が、シェイクスピアの翻案をしきりに始めました。「ハムレット」、「ロミオとジュリエット」、「リヤ王」、「マクベス」、「オセロー」、かういふものがどんどん翻案となつてフランスの舞台に現はれました。その後、一七七六年に Letourneur といふ人が、シェイクスピアの翻訳を完成しました。ところが、その翻訳が完成すると、ヴォルテールは非常に苦い顔をしました。その苦い顔は、当時彼れが発表したシェイクスピア論の到る所に見えてゐます。これは甚だ奇妙な現象でありました。ヴォルテールの態度が目立つて変りました。シェイクスピアには、なるほど、多少いゝところもあるけれども、概していふと、趣味が下劣で、野蛮で、一口に言つて見れば、気狂ひが酔つぱらつてるやうなもんだ、云々。かういふ暴評をしたのであります。ところが、その当時には既にフランス内にシェイクスピア党が可なりあつたのですから、この暴評を聞き捨てにしませんでした。当時の批評家達は挙つてヴォルテールの変節を怒つたのでありました。
 が、この「変節」について、最近おもしろい意見を発表してゐる一学者があります。それは Emile Faguet といふ劇評家兼アカデミイ会員です。(もう亡くなりましたが)この人はその一著の中で、右の「変節」について弁護をしてゐる。自分は一体ヴォルテールが非常に好きで、いつでも彼のためには弁護の地位に立つ者だが、右の「変節」問題についても一言弁じたいと前提しまして、ヴォルテールはシェイクスピアの第一の紹介者として功労があるのみならず、シェイクスピアを善く理解し、その偉大さを十分芸術家的に味得した、今日迄の有数な人の一人である。従つて、ヴォルテールが最初シェイクスピアを非常に褒めて紹介をした時と、その後何十年かの後に、彼れを殆んど罵倒せんばかりに批評をした時と、必ずしも考へは変つてゐない。たゞ、初めて紹介した時のヴォルテールは一種の革命家であつたからシェイクスピアの長所を強調するに力めた。ところが数十年経つて後には、ヴォルテールは、文学的にも思想的にも、既に一個の反動家となつてゐたのである。だから、その当時余りに世間にかつぎ上げられてゐるシェイクスピアに対して、寧ろその悪いところを強調して警戒したに過ぎない、だから変節ではない。――といふのである。
 ヴォルテールの「変節」の動機に関しては、もう一つおもしろい個人的な理由がありました。さつき申したルトルヌウルといふシェイクスピアの翻訳全集を出した人は、劇評家でもありましたが、この人がフランスの戯曲家総論といふやうな本を書きましたが、その書物のなかに、「フランスにおける偉大なる劇作家」といふ項目がある。それにはラシーヌ、モリエール、コルネイユ、マリヴォー、さういふ人を入れてゐながら、ヴォルテールの名前を入れなかつたのです。そこでヴォルテールは、そのルトルヌウルに対する反感から、シェイクスピアを同時にやつつけたんだといひます。これは甚だヴォルテールらしい、天才的な態度であつて、われわれは到底まねることが出来ないといふことを、ファゲがフランス式の諧謔まじりで書いてをります。
 十九世紀になつては、例の Stendhal が、一八二三年に「ラシーヌとシェイクスピア」といふ題で一大論文を発表してゐます。彼はフランス劇壇では神の如く祀り上げられてゐるラシーヌをシェイクスピアに較べて、今日われわれの学ぶべきはシェイクスピアである、今の人間の心を写す上からも
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