ウルは客観の主観化(若し此の言葉が許されるならば)である。カリカチュリストは「現実」を信じてゐる。少くとも「現実」の観察を主眼とする。その微笑は「信ずるものゝ微笑」である。
 ファンテジイは、主観の客観化であり、ファンテジストは「現実」を疑つてゐる。少くとも「想像の遊戯」を忘れない。その微笑は、故に「信じないものゝ微笑」である。

 年少にしてファンテジイを解するものは稀である。
 多くの天才は、屡々初老に至つて最も優れたファンテジイの駆使者となつた。シェイクスピイヤ、モリエール、ゲエテ、ユゴオ、みな然りである。

 ミュツセとイプセンとロスタンは、壮年にして既に鮮かなるファンテジストであつた。

 ファンテジイは近代日本文学に最も欠けたるものゝ一つである。



底本:「岸田國士全集19」岩波書店
   1989(平成元)年12月8日発行
底本の親本:「言葉言葉言葉」改造社
   1926(大正15)年6月20日発行
初出:「時事新報」
   1925(大正14)年5月13、14日
※初出時「独断三幅対」の題の元に小題「一、フアンテジイ」(13日)「一、フアンテジイ(つゞき)」(14
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