が、この劇団のレペルトワルからいつて、必ずしも想像できなくはない。元来、この種の喜劇は、仏蘭西でなら、商業劇場の出し物として通用する程度のものだけれど、日本の現状から見れば、これを「新劇」の劇団が上演して一向差支ないと思ふ。つまり、俳優はそこから多くのものを学び、観客はそこから「新しい」魅力を味ひ得るからである。そればかりではない。日本の劇団は、今まで西洋劇の影響を可なり受けたとはいへ、それは畢竟「文学的」な影響に止り、「舞台的」殊に「演技的」影響は、殆んど受けてゐないのだ。その原因は、かういふ「芝居らしい芝居」の移植が、全然顧みられなかつたせゐと、それを演じてみようといふ俳優がゐなかつたからである。その点、この劇団は、さすがに屈托のない元気さで、この「通俗喜劇」を上演し、しかも立派に「新劇的効果」を挙げ得たことは、私はじめ、大に意を強くする次第だが、さて、これを演じる俳優諸君が、以上の見地から離れ、多少、「いい気になつて」この脚本の調子に曳きずられて行つたら、将来、大事を成すことは覚束ないと思ふ。そして、その心配が全然なくもなかつたことを、私は敢て、直言するのである。(一九三二・三)
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