ジュウル・ルナアル
岸田國士
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)幻象《イマアジュ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)屡※[#二の字点、1−2−22]
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Le Pain de Me'nage〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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劇作家としてのジュウル・ルナアルを識る前に、詩人としての――芸術家としてのルナアルを識らなければならない。
彼は自ら称する如く、「幻象《イマアジュ》」の猟人である。自然を愛し、自然を味ひ、自然を呼吸しつつ、その全生涯を一種の厭世家として終始してゐる。
芸術家としてのルナアルの偉大さは、彼が聡明なペシミストであるが為に、ただそれが為に、屡※[#二の字点、1−2−22]凡庸な批評家を近づけない。
彼は叫ばない。彼は呟くのである。
彼は泣かない。彼は唇を噛むのである。
彼は笑はない。彼は小鼻を膨らますのである。
彼は教へない。目くばせをするのである。
彼は歌はない。溜息を吐くのである。
彼は怒らない。目をつぶるのである。
彼は生涯にたつた七篇の戯曲を書いた。何れも喜劇の部類に属すべきものである。彼をして舞台に興味をもたせたのは、その交友中に、エドモン・ロスタン、トリスタン・ベルナアル、リュシアン・ギイトリイ等がゐた為めに外ならぬが、それらの云はば余技的な作品が今日もなほ悠々たる舞台的生命を保つてゐる所以は、彼が生れながら既に、非凡なる戯曲作家の「息」をもつてゐたからであり、彼が何よりも先づ「魂の韻律」に敏感であつたからである。
彼は、自ら「自然によらなければ書かない」と宣言しながら、所謂自然主義者たるべく余りに現実の醜さを見透した。そして、その醜さを醜さとして描くためには、あまりに詩人であつた。
劇作家としてのルナアルは、愈※[#二の字点、1−2−22]古典作家として仏蘭西劇の雛壇に祭り上げられようとしてゐるが、彼の作品はまだそれほど老い込んではゐない。現代仏国の若き作家は、やうやくベックを離れてルナアルに就かうとさへして
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