眠つてゐるがいゝ、この世の花々しい※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]を、遠くから、笑つて見ておいで。(部屋の中を、また歩き廻る)――やあ、先生、長々お世話になりました。お蔭で、家内も、お医者さんの必要がなくなりました。――はゝあ、もうこちらをお引上げですか?――こちらもこちらですが、われわれは、今日限り、人生を引上げます。さあ、家内が御挨拶を申上げるさうです。
声――あツ! これはどうしたといふんです。え? 一体、どうしたんです。
男――御覧の通りです。こいつは、ある男の誘惑を逃れるために、いや、その誘惑に打克つために、死を択ばなければなりませんでした。僕のためにです。おわかりですか。われわれ夫婦は、さういふ間柄になつてゐたのです。死ぬ以外に二人は結びついてゐられないといふ事実、その事実の前に、何の躊躇がいりませう。僕は、先づ、こいつの心臓を突きました。
声――わかりません。わたしには、さつぱりわかりません。
男――いゝえ、あなたに御迷惑はかけないつもりです。それどころか、こいつにしばらくの希望と幸福とを与へて下すつたことでは、僕から幾重にもお礼を申上げます。
声――わたしは、医者として、出来るだけのことをしました。
男――さうです。信じたいものは、さう信じるでせう、僕は……(よろめく)あゝ、誰を……何を信じればいゝのだ。(急に女の寝てゐる寝台の前に跪《ひざまづ》き)おい、シイ坊……おれは、ほんたうのことを云ふと、なんにも知らんのだ。お前は、何をしたといふのだ。え? なんでもなかつたのか? なにもなかつたのか? うん、それは無論、さうだらう。だが、これから、先は? 来週の金曜は? 再来週は? いや、さうぢやない、もつと先の先は? わかるまい? おれには、それがわかつてゐるのだ。わかつてゐたのだ。お前は健康だ。お前は美しい。お前は若い。お前は明るく、賑やかだ。お前は何処へ行く? 誰がお前を幸福にし、お前に感謝されるのだ! あゝ、おれはどうすればいゝんだ。(手に持つた短刀を胸にあて、ぐいと力を入れて、そのまゝ女の死体の上に突つ伏す)
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底本:「岸田國士全集5」岩波書店
1991(平成3)年1月9日発行
底本の親本:「職業」改造社
1934(昭和9)年5月17日発行
初出:「文芸春秋 第十
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