でないが、巴里の劇壇で名を成した以上、現代仏蘭西作家のうちに名を連ねても差支へあるまい。しかし、そんなことはどうでもいい。彼の稍※[#二の字点、1−2−22]北方的な素質は、マアテルランクなどと共通なものを感じさせはするが、同時に、彼のうちには多分のミュッセがあり、ロスタンがある。現代に於ける、最も興味ある作家の一人であらう。
彼は、「堂々たるコキュ」の外に、「面師」(一九一一年)及び「初々しき恋人」(一九二一年)の二作を上演し、次で、「千五百五十年創立の商店」「ドム君の思想」の発表を予告し、最近、「金の腸」及び「カリイヌ或は魂の狂つた少女」の新作を舞台にかけたが、これは何れも、「堂々たるコキュ」以上の面白さはないやうである。殊に、「初々しき恋人」に見える稍※[#二の字点、1−2−22]病的な主観は、その「余りに地方的な」感情と共に拡大し、作品を頗る晦渋なものにしてゐる。少くとも仏蘭西人の嗜好には適せぬものとなつた。
私は、「堂々たるコキュ」を訳しながら、久々で愉快な仕事をした。ただ、訳語を選択するにあたつて、困つたことが二つある。第一には、フランドルの田舎を場面とするこの戯曲の人物に、普通の言葉を使はせたくない。さうかと言つて、日本の田舎言葉はこつちが不案内である。原作の会話は、勿論、所謂「田舎言葉」の写実ではなく、十分様式化され、洗煉され、詩化された独得のスタイルであるからさういふ味も訳語のうちに現はしたい。ところが、そんな野心は悉く捨てなければならなかつた。それは、実に大事業である。もし出来るなら、北陸か山陰の海に近い地方で、その土地の生活と言葉とを研究した上、それを基礎にして、新らしい様式の会話体を創り出し、この戯曲の訳に利用したら、さぞ面白からうと思つただけである。
第二に、かなり露骨な表現で、検閲が危いと思ふ箇所が随分あつた。これはしかし、純粋に芸術的立場から見て、どうしても生かしておきたいものばかりであるし、当局も、この作品を玩味すれば、さういふ言葉の上の問題は、結局懼れるに足らないことがわかつてくれるだらうと思ひ、ただ単に、幾分手心を加へるに止めた。この手心を加へるといふことが、実に苦しい仕事だつた。
底本:「岸田國士全集21」岩波書店
1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「近代劇全集第二十一巻」第一書房
1930(昭和5)年8月10日発行
初出:「近代劇全集第二十一巻」第一書房
1930(昭和5)年8月10日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月20日作成
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