妙に「中学生の演説」然たる調子が鼻につき、沈黙派とは、結局、「思はせぶり第一」に過ぎないやうな気がして、少々、こつちが照れ臭くなつて来た。
 しかし、この作品が上演された当時、批評家は、この「甘さ」に眼をつぶり、一斉に好意ある讃辞を呈したことを想ひ起し、時代と作家の運命といふ問題に就いて考へた。
 ある批評家はかうも言つた――「音もなく咲いて音もなく凋む一輪の花の命を、ある限られた時間に観察することができるとしたら、それは恐らく、彼の戯曲を観ることになるであらう……」と。
 実際、彼の企てたところは、あくまでも蕭やかな魂の囁きに耳を傾けることであり、繊細な暗示に富む心理描写の、清澄な詩的表現によつて、「沈黙」の底にひそむ人生の姿を掴まふとすることであらう。しかしながら、彼の早熟な才能は、父トリスタン・ベルナアルの血を享けてゐる証拠を示すだけで、未だ「黄吻」の域を脱してゐない。ただ、この作品は、発表当時、兎も角も、一つの理論を背景として新興劇壇に相当のセンセイションを惹き起したといふ事実だけでも、今日、顧みられる価値があるだらう。彼は、この外に、処女作として、「二度燃え上らない火」を、次いで、「他人の春」を発表してゐる。「旅の誘ひ」は恐らく彼の成熟を示すものであり、その後発表された「アンベエルの秘密」「ドゥニイズ・マレット」「悩める魂」「面影」等の諸作は、まだ読んでみる機会がないが、或は、その中に彼の傑作があるかもわからない。
 之に反して、クロムランクの「堂々たるコキュ」は、訳し甲斐のあるものだつた。この戯曲が、初めて制作劇場の舞台にかかつた時(一九二〇年)その奇怪な筋と、大胆な表現とに、先づ巴里の観衆は驚いた。
 コキュ(Cocu)といふ言葉は、「妻を寝取られた男」を意味し、仏蘭西の芝居は、昔から、屡※[#二の字点、1−2−22]これを好箇の「劇的人物」として取り扱つた。
 この「堂々たるコキュ」も、中世のファルスからヒントを得た題材だと言はれてゐるが、クロムランクは、この古風なビュルレスクに近代人の神秘感を織り込み、素樸な心理を新しいファンテジイによつて塗り上げた。そこから生れたものは、憂鬱な幻想と朗らかなエロチシズム、かのフランドルの森と海とを包む香ばしい黄昏の唄である。
 彼はその名から判断しても白耳義人に相違ない。果して仏蘭西人の血を引いてゐるかどうか詳か
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング