屋である。私たちは、話に夢中になつて、その日、夕食を食ひ損つたのである。その画家はアトリエの一隅で、アルコオル・ランプに火を点け、米の飯を焚き出した。茶めしを御馳走しようと云ふのだ。私は空腹を抱へて飯のできるのを待つた。やがて、醤油の煮える香ひがしだした。巴里で嗅げば、これもノスタルヂヤの種だ。
 ――さあ食ひ給へ。
 その後は、どんなことを話したか覚えてをらぬが、それから一年もたつてからのこと、その画家は私に向つて、面白いことを云つた。
 ――君がはじめて僕のアトリエに来た時、壁といふ壁にあんなにかけてあつた僕の画を見て、お世辞にでもなんとか云はうとしない無頓着振りには、全く感心したよ。それより第一、絵かきのところへ来て、絵がそこにかけてあることさへ気がつかないやうなんだ。
 ――腹がへつてたからだらう、きつと。
 ――いや、飯を食つてから後でもだ。
 ――腹がふくれたからだよ、それや……。
   ……………………………………
 こんな冗談にまぎらはしたものの、私は内心、画家を友にもつ資格のないことを恥ぢた。

 私が最も驚異の眼を見はつたのは、ある友人に連れられて、モン・パルナスの
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