と云つても既に「或る動かすべからざるもの」を有つてゐるやうに思はれる。
 ルノルマンは、将にさういふものを有たうとしてゐる作家である。
「憑かれたもの」「砂塵」「灼土」等の初期の作品は、一部の先見ある批評家をして、彼の未来を嘱目せしめたに過ぎなかつたが、戦後相ついで「落伍者の群」「時は夢なり」「熱風」「夢を啖ふもの」を発表して彼の声価は頓に著れた。殊に「落伍者の群」「時は夢なり」の二作は、たまたま名舞台監督ジョルジュ・ピトエフの手によりて完全に舞台化され、彼の戯曲家的手腕は、初めて遺憾なく巴里の劇壇に紹介された。
 その後「赤歯山《レ・ダン・ルウジユ》」「男とその幻」「悪の影」「卑怯者」等で、相当の成功を収めたと伝へられる。
 私はここで、ルノルマンを如何なる意味に於ても、誤つて伝へたくない。彼は、優れた天分と信頼すべき芸術的良心とを有つた新劇開拓者の一人であること――その数ある作品は、何れも、相当深い思索と、充分に鋭い感受性と、殊に、稀に見る表現の的確さによつて、彼が「大器」たるの素質を示してゐること――その主題の新鮮さ、結構の自由さ、弾力に富む文体の朗らかな、そして底力のあるメロディー、それは常に、興奮と凝視と瞑想の、極めて特殊な「心理的詩味」を醸し出し、最近の仏蘭西劇壇を通じて、最も異色ある作家の一人となつてゐること――先づこれだけのことを言つて置きたい。

 そして、わたくしは、かういふことをつけ加へる。
 彼の今日までの作品は、少くともその手法に於て、決して斬新奇抜と云ふほどのものではない。それどころか、わたくしの観る処では――恐らく誰でも気のつくことであらうが――彼には「幾人かの先生」がある。
 これは、前に述べた、現代仏国劇壇の傾向を物語る一つの好適例であるやうに思ふ。
 彼は、これらの「先生」から、「貰ふべきもの」と「一時借りたもの」とを、まだ同時にもつてゐるやうな気がする。
「借りたもの」を返してしまふ時機が早晩来なければならない。
 それから「貰つたもの」が、「自分で造つたもの」の中に、すつかり形を没してしまふ時機が来なければならない。

 此の意味で、今日、彼に「偉大なる天才」の名を冠することは、まだ早いやうに思ふ。

 彼の感受性は、しかく鋭敏であるに拘らず、その好奇心に、ややナイーヴなものがあることは否めない。その一つは、科学に対するそれであり、もう一つは、異国趣味に対するそれである。彼はアインシュタインの相対性原理(時は夢なり)とフロイドの精神分析(落伍者の群)とを通俗化し、和蘭と亜弗利加と南洋とを、運河と砂漠と竹藪によつて象徴させようとする。彼の描く人物は、概ね「考へる」以上に感じてゐる。しかしながら、時として、象徴的手法の失敗が、人物の性格を類型に陥れる場合がないでもない。之に反して、霊感一度到れば、その表現の鮮かさは、まさに、常人の企て及ばないものがある。
「大なる未来」を想はせる所以である。

 かう云ふと、彼の価値は、また法外に低く見られる恐れがある。わたくしが、日本ならば、老大家の列に加へらるべき年輩と閲歴ある彼を、仏国に於ける一新進作家として紹介し、あまつさへ日本ならば、一流の文人と比肩し得べき彼――ルノルマン君よ、何とでも云ひ給へ――の芸術を評するに、最大級の讃辞を用ひないその罪を、抑※[#二の字点、1−2−22]何ものに帰すべきであらうか。
 くれぐれも私の罪ではない。ルノルマン君よ、君が、仏蘭西といふ国に生まれた罪だ。



底本:「岸田國士全集19」岩波書店
   1989(平成元)年12月8日発行
底本の親本:「近代劇全集 第十八巻」第一書房
   1927(昭和2)年6月10日発行
初出:「演劇新潮 第一年第十二号」
   1924(大正13)年12月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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