だかに、あの人の泊つてゐる神田のホテルへ、のこのこと出かけて行つたもんよ……。どんな顔をされるかつてことも考へずに……。でも、よかつたわ……。あの人は、にこにこ笑ひながら、「ヨクキマシタ」つて、背骨が折れるくらゐ抱き締めてくれたの……。
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起ち上り、歩き出す。
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――それから間もなくだわ、あの人が、こゝへ引越して来たのは……。ホテルは不経済だからつていふんで、わざわざ、こんな素人下宿を借りたんだと思ふわ。あれで、なかなかガッチリ屋なのよ。この道具類を買ふんだつて、あたしを一緒に連れてつたのは、安い品物を買ふ手なんだわ。この寝台が三十八円、戸棚が十九円、椅子テーブルで二十二円だつたかな……。西洋人で、あんなの珍しいわ、きつと……。あたしは、もちろん、お金|目当《めあて》にあの人とこんな関係になつたんぢやないからいゝけど、人から、たんまりお小遣でも貰つてると思はれるのが癪なくらゐだわ。さう云へば、附添料の外に二円の心附を受け取つたきり、最後まで、電車賃ひとつ出させたことないんだから……。その点は、大威張りだわ。あゝ、品物……? それは別だわ。去年の夏、京都へ行つたお土産《みやげ》だつて、人形をひとつくれたつけ……。それから、この正月、どつかの店で、メリンスの端ぎれを六尺ばかり買つて来て、勿体らしく差出されたのには、少し間誤《まご》ついたわ。さうさう、御馳走では、竹葉の鰻を食べにはひつたことが一度、あとは、この家で、おそばか丼を取るのがせいぜいだつたわ。だけど、そんなことは、どうだつていゝの。どうせ会ふ日は決《き》められないんだし、不意に来て、一日か二日、そばにゐられるつていふだけで、あたしは満足だつたんだから……。今から考へると、よく、あんな風で、これまで続いたと思ふわ。お互に、名前のほかはなんにも織らず、先々のことも、てんで問題にしないで、たゞ、会ひさへすれば、あんなに……あんなに、愛し合へるなんて、誰も想像できないにちがひないわ……。
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鏡戸棚を開けてみる。
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――おや、まだ掃除もしてないらしいわ……。
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ボール箱を引き出す。
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――ある、ある、いろんなものが……。
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中から、オー・ド・コローニュの空瓶《あきびん》をつまみ出し、それを嗅いでみる。
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――あゝ、この香ひ……。
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今度は、歯ブラシの古いの。
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――こんなになるまで使つたんだわ……。
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それを、ハンド・バッグにしまひ、次に、釦一つ。
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――何の釦だらう……。あゝ、あの外套だわ、きつと……。
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これも、ハンド・バッグへ。そして、次に、折れたペン軸。
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――あの人の手紙でも読めるなら、これもいゝ記念だけど……。
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さう云ひながら、ハンド・バッグへ入れかけて、ふと、それを思ひ止《とま》る。それから、ボロボロのスリッパ、安全剃刀の刃、煙草の銀紙等を、ひとつひとつ、つまみ上げ
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――どれもこれも、捨てていゝやうなものばかりだわ……。
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ボール箱の中へ、再びそれらを入れて、戸棚にしまふ。そして、今度は、汚点《しみ》だらけの藁稈帽を取り出し
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――まあ、この色……。
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それを、ちよつと、頭にのせて、鏡を見る。
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――あの人が帽子を被《かぶ》ると、それや、若くなるのよ。
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急に、椅子にからだを投げかけ、肘で顔を蔽ひ、泣きながら
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――あんまりだわ、あんまりだわ……。そんな……そんな法つてないわ……。なんとか、前に云つてくれたつていゝ筈だわ。それならそれで、ちやんと、覚悟するのに……。いくらだつて、諦めやうがあるわ。これぢや、どうしたつて、諦められないぢやないの。この次ぎ来れば、また会へるやうな気がするんですもの……。なんべんも、会へるまで来てよ、あたし……。
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顔をあげ、あたりを見廻す。
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――だけど、あたしたちは、どんな約束をしたんだらう。お互ひに、どれだけ気持がわかつてたんだらう……。あの人の、云つたりしたりしたことで、あたしの心に、深く残つてゐることと云へば、いつたい、なにがあるだらう……。あゝして、時々会つてゐながら、今日は前よりも別れにくいなんてことがあつたかしら……。またこの次ぎは何時《いつ》になるか、あの人はそれを訊《き》きもせず、あたしは、それを訊かれたくなかつた……。別れるたんびに、また会へるかどうかわからないつていふことが、あたしには、却つて気楽だつたし、そのために、随分大胆にもなれたんだわ……。
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起ち上り
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――さうだとすれば、かういふ日が、もつと早く来てゐてもしかたがないんだのに、どうして、今更……今更こんなに……こんなにぢたばたするんだらう。
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壁に貼りつけた大美人画の前に立ち
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――あの人は、この絵があたしに似てるつて云つたわ……。この絵と、あたしを見較べて、「コレアナタデス」とかなんとか云つたわ。さう見えるのかしら……。それや、日本の男がさう云ふんなら、あたし、いくらなんでも、信用しやしないわ。そんな、見えすいたお世辞、馬鹿馬鹿しくつて、きつと腹が立つわ……。でも、それを、あの人が云ふと、まんざら、お世辞ばかりでもなささうだつて気がするの。自惚《うぬぼ》れなんか起すんぢやないわ。西洋人の眼には、そんな風に見えるのかも知れないし、そこがまた、面白いぢやないの。だからさ、今仮に、おかめの面を持つて来て見せれば、「や、この方があんたに似てる」なんて云ひ出すかも知れないわ。罪がないぢやないの。つまり、さういふところよ。
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鏡の方に向ひ
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――やつぱり、好きになつてたんだわ……。それや、心からつて云へないやうなところもあるにはあるけれど、浮気《うはき》なら浮気で、もつと相手がありさうなもんだわ。あたしのやうな女が、あと先の考へもなく、男にからだを許すつてことが、どうして出来たか、自分でも第一わからないし、人から見れば、※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]のやうな話だわ。だつて、今までに、さういふ機会はいくらもあつたくせに、あんなに立派に、切り抜けて来たんですもの……。あたしは、女でも、どつちかつて云へば、冷《つめ》たい方の女よ。それは、前の男との関係でもわかるわ。あの三年間の、踏みつけにされた生活を、黙つて忍んで来たあたしですからね。おんなじ家へ、へんな娘つ子を引張り込まれて、朝晩、寝床のあげおろしまでさされた経験を、いくたりの女がもつてるでせう……。でも、あたしを、意気地なしだと思つたら間違ひよ。あの男を捨ててしまふ気なら、何時《いつ》でも捨てられたんだわ。たゞ、さうなると、意地よ、ほんとに……。何時《いつ》か男の眼が覚めるだらうつて思ふ一方、その女との根気《こんき》くらべみたいな形にもなつたんだわ。で、たうとう、あたしが負けるには負けたけれど、三年間の辛抱は、褒めてもらつてもいゝわ……。
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椅子に腰をおろす。そして、すぐにまた起ち上る。
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――二十五の年、つまり去年まで、自由な身でゐて、男つていふものを、振り向いても見なかつたわ。憎らしいとか、怖《こは》いとかぢやないの。なんか、かう、すかすかした、興醒めな気持しか起らないのね。どういふんでせう、それが、かうなつたんだわ……。いゝえ、それも、ほかの、どんな男にでもつていふんぢやないわ。あの人だけよ。あの人だけによ……。会はずにゐれば、切《せつ》ないし、会へば、わけなく、ぽうツとしてしまふの。
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両手で頬をおさへ、甘えるやうに科《しな》を作る。
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――あら、どつかで笑つてるわ。まさか、あたしのことぢやないだらうな。
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寝台の上へどかりと腰をおろし、スプリングでからだを弾《はず》ませながら
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――かうしてると、あの人が国へ帰つたなんて、どうしても思へないわ。どつか、そのへんに、戸棚の後ろかなんかに隠れてさうな気がするわ。だつて、さういふこともあつたのよ。そんな巫山戯方《ふざけかた》をする人だつたわ。何時《いつ》かも、あたしが、奥へ誂へ物を頼みに行つてる間に、こつそり寝台の下へ潜つて、しばらくあたしに気を揉ましたわ。だつて、それが三十分からよ。出て来るところを、あたし、いやつていふほど、スリッパでぶつてやつたわ。さう云へば、あたしが乱暴すんの、とてもよろこぶの。あんなの、変態かしら……。
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両手で顔をおほひ
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――なんでもいゝわ。もう一度、たつた一度でいゝから会ひたい……。もう、これつきり会へないつていふ、ほんとの決心をしたところで、しみじみ会つてみたい……。今までは、どうしたつて、それほどの気持にはなれなかつたわ。はつきりさうとわからないうちは、まだまだ先があるやうな、うつかり構へてるところがあつたわ。それが口惜《くや》しいの、あたし……。
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今度は、片手で頬杖をして
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――あの人が若し、あたしをフランスへ連れてくつて云つたら、あたし、なんて返事をしたらう……? それや、いやだなんて云はないわ。でも、これまで、一度もそんなこと考へてみなかつたわ。それや、あたしには、ちやんと、あの人つてものがわかつてたんだわ。どうせ、そんな真面目《まじめ》な気持ぢやないにきまつてるわ。殊に、はじめは、向うも気紛れ、こつちも気紛れだわ。たゞ、あたしを、玩具《おもちや》にしたつていふのと、少し違ふところがある。それだけ、あたしも、本気になれたんだわ。釣るとか、瞞《だま》すとか、そんな腹は、どつちにもない。恩も義理もない代り、秘密も見栄《みえ》もない。お互ひに縛られず、お互ひに、飽きもしなかつたんだわ……。だから、あの人が、日本にゐさへすれば、いくらでも長く続いた筈よ、何時《いつ》までも、どんなことがあつても……。
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急に、からだを捻ぢ向け
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――あツ……。あの人には、奥さんがあつたのかしら……。それも、訊《き》かう訊かうと思
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