を引かうとすると、あの人の右手が、いきなり、あたしの手をぎゆつと握つて、どうしても放さうとしないぢやないの。なんの意味か、ちよつとわからなかつたわ。いゝえ、とぼけてるわけぢやないの。実際、相手が男だつていふことを忘れてたのよ。笑はれても仕方がないわ……。でも、そん時、あの人の眼を見なかつたら、あたしは、まだ、戯談《じやうだん》ぐらゐに思つたでせう。そら、やつぱり、あの眼なのよ。あたしは、ハッとして、力|委《まか》せに、手を振り放したの。さうして、部屋を逃げ出したわ。
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つと、また起ち上つて、鏡戸棚の前に行く。からだは正面を向いたまゝ、顔だけ鏡の方へ近寄せ
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――その晩も、また、おんなじやうなことがあつたの。あたしも、今度は、平気で、笑つててやつたわ。ところが、その翌朝、どうしたつていふんでせう、あたしは、たうとう、あの人の手を握り返してしまつたの……。半分、悪戯《いたづら》のつもりで……。
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さう云ひながら、髪に手をやり、ほつれを直す。で、今度は、正面を向いて、笑ひを含みながら
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――そこで、いよいよ退院つていふことになつたんだわ。今夜一晩きりで、もう、この人は、何処かへ行つてしまふんだ……。さう思つてみると、なんだか、このまゝ別れるのが……辛《つら》いつていふと変だけど、まあ、名残惜しいやうな気がしたのね。向うは、無論、それ以上だわ……。
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急に、その辺を歩き出しながら
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――えゝツ、かまふもんか……。誰にも知れつこはないんだ。
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やがて、ぐつたりと、寝台の上に寝ころがり
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――あゝ、あの晩のことは、夢のやうだわ。翌朝は、綺麗さつぱり忘れちまふつもりでゐたことが、あの人のゐなくなつた後で、却つて、あたしを苦しめる種《たね》になつたんだわ。
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急に、頭をもち上げ
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――十日とは待てないで、八日目だかに、あの人の泊つてゐる神田のホテルへ、のこのこと出かけて行つたもんよ……。どんな顔をされるかつてことも考へずに……。でも、よかつたわ……。あの人は、にこにこ笑ひながら、「ヨクキマシタ」つて、背骨が折れるくらゐ抱き締めてくれたの……。
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起ち上り、歩き出す。
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――それから間もなくだわ、あの人が、こゝへ引越して来たのは……。ホテルは不経済だからつていふんで、わざわざ、こんな素人下宿を借りたんだと思ふわ。あれで、なかなかガッチリ屋なのよ。この道具類を買ふんだつて、あたしを一緒に連れてつたのは、安い品物を買ふ手なんだわ。この寝台が三十八円、戸棚が十九円、椅子テーブルで二十二円だつたかな……。西洋人で、あんなの珍しいわ、きつと……。あたしは、もちろん、お金|目当《めあて》にあの人とこんな関係になつたんぢやないからいゝけど、人から、たんまりお小遣でも貰つてると思はれるのが癪なくらゐだわ。さう云へば、附添料の外に二円の心附を受け取つたきり、最後まで、電車賃ひとつ出させたことないんだから……。その点は、大威張りだわ。あゝ、品物……? それは別だわ。去年の夏、京都へ行つたお土産《みやげ》だつて、人形をひとつくれたつけ……。それから、この正月、どつかの店で、メリンスの端ぎれを六尺ばかり買つて来て、勿体らしく差出されたのには、少し間誤《まご》ついたわ。さうさう、御馳走では、竹葉の鰻を食べにはひつたことが一度、あとは、この家で、おそばか丼を取るのがせいぜいだつたわ。だけど、そんなことは、どうだつていゝの。どうせ会ふ日は決《き》められないんだし、不意に来て、一日か二日、そばにゐられるつていふだけで、あたしは満足だつたんだから……。今から考へると、よく、あんな風で、これまで続いたと思ふわ。お互に、名前のほかはなんにも織らず、先々のことも、てんで問題にしないで、たゞ、会ひさへすれば、あんなに……あんなに、愛し合へるなんて、誰も想像できないにちがひないわ……。
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鏡戸棚を開けてみる。
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――おや、まだ掃除もしてないらしいわ……。
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ボール箱を引き出す。
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