のメンバアは、有為な頭脳にも拘らず、近代演劇の芸術的進化について盲目であり、俳優の教養については更に考慮を払つた形跡がない。
坪内逍遥は、演劇に関する限り一個の傑れたアマチュアであつて、一世を指導する創造的着眼を欠いてゐた。かくて、島村抱月も小山内薫も、終生アカデミイなきアンデパンダン的存在として、空虚な努力を「新劇」開拓の上に捧げたのであつた。
一方、近代企業の列に伍した劇場経営は、国家の無関心に乗じ、民衆の無批判を利用して、多少の犠牲を伴ふ文化的役割を完全に放擲した。合法的に卑俗化するといふ顕著な現象を、最早、何人も制止し得ない「制度」を確立してしまつたのである。
かかる弊害を予防するためにも西洋の諸国家は、夙に、演劇のアカデミイを設けてゐるのであつて、その内容は、教育機関と、劇場管理の二方面において、国家が財政的負担をなし、民間の専門家をしてその運用に当らしめ、以て「定評ある芸術家」の保護と、教養を求める階級の希望に具へ、更に、油断のならぬ営利劇場への牽制をこれ努めてゐるのである。
国立音楽演劇学校(コンセルヴァトワアル)と国立劇場(コメディイ・フランセエズ、オデオン・オペラ、オペラ・コミイク、トロカデロの五座)は私の滞仏中の観察に拠ると、当時の情勢で、十分にその文化的意義を発揮しつつあるやうに思はれた。
巴里の劇場は、その数、百に余るといはれるが、そのうち、勿論芸術的価値の全然認められない興行も混つてゐて、これが吸収する観客の層も甚だ広いには違ひないが、少くとも、国立劇場を除く所領ブウルヴァアル劇場中、その主流を占める大劇場の経営者は、何れも、絶えず算盤ははなさないにしても、一様に相当の「芸術愛好者」であり、多少とも「文化的教養」の所有者たることを疑ひ得なかつた。
これは、ある場合、さうであることが却つて算盤に合ふのかもしれないし、また、少々穿ちすぎるやうだが、さうでなければ世間で――即ち彼等の出入する社交界で、大きな顔ができないからであるとも考へられる。名誉心といふか、矜恃といふか、または単なる見栄といふか、そのへんの微妙な心理が、この重大な現象を支配してゐるといへないこともあるまい。
これがつまり、実際的に見て、一国の文化水準如何によつて定まる問題なのである。そして、時代の演劇をしてある水準を保たしめる原動力は、国家の積極的インテレストが加
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