いかぬといふことを誰よりも痛切に感じてゐる筈である。われわれが持ち前の実力を発揮するために、何が障碍になつてゐるか、諸君の周囲を見ればわかる。健全な文化の名に値する何ものが近代日本の手によつて創られたか。諸君を奮ひ起たせる名目は、日常の生活のうちに満ち満ちてゐるのである。
[#ここで字下げ終わり]
さて、問題がこゝまで来た以上、私は更に、日本が現在求めてゐる新しい青年の型について一言しなければなりません。
実は、この問題は極めて重大な問題でありまして、私だけが、自分の好みでそれを取扱ふといふことは慎みたいのですが、既に、誰云ふとなく、かういふ話題は世間の口にものぼつてゐますし、また、事実として、各方面に、いはゆる「新しい型」とみなすべき男女青年が現はれはじめたのであります。
たしかに、時代は、人間の型を作ります。そして、その型は、新しい世代に迎へられ、時には流行の観を呈するものであります。徒つて、この型に反撥するものもできて来ます。
たゞ単に、時代の空気を映した型といふやうなものに何の価値がありませう。われわれが求めるものは、真に、時代を生き、時代を導く日本人の典型であります。かゝる典型への成長を予想させる青年男女の、未完成ながら溌剌とした、一方われわれの祖先につながるものを豊かにもちつゝ、なほかつ、未来の知られざる世界へ伸びる可能性を十分に発揮した、一つの若々しい精神のすがたを想像することは、私にとつてはこの上もなく愉快なことです。
しかしながら、かういふ「精神のすがた」は、如何なる文学的表現も限りある想像力をもつてしては容易に描き出せるものではありません。具体的には、恐らく、「理想的何々」といふ風な、ある限られた条件のなかで、特殊な成育を遂げつゝある一つの型を常識として想ひ浮べることが許されるでありませう。例へば「理想的青年教師」とか、「理想的農村青年」とかいふやうなものです。この場合、私は、「理想的」といふ言葉が、往々にして、類型化された卑俗な調子に引きさげられてゐるのをみます。それは、一見非のうちどころのない、それぞれの立場では模範となるやうな青年を指してゐるにもせよ、そこには、常に功利的な、一種の「成績」といふやうなものが重大視され、日本の青年としての気品や「志」といふやうなものが問題にされることは至つて少いのであります。殊に屡※[#二の字点、
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