ゝに、今日までの「文化」の推移、発展のすがたがあります。
「高い文化」を誇つてゐた国の、「文化の危機」がどこにあつたかといふと、その「文化」を脅やかす他の力ではなくて、寧ろ、その高いと移する「文化」自体のうちにあつたことが今や明らかになりました。即ち「高い」といふ価値標準のうちに、「健康」といふ条件がまつたく欠けてゐた事実を暴露したのであります。
 そこで、「高い文化」は不健康を伴ふといふ逆説のやうなものまで、一部の人々の間では信じられるやうになり、事実はそれほどではありませんが、その声だけは相当の力をもつて巷間に流れてゐます。尤も、西洋近代文化の一般から推して、既に彼地に於ても「文化」は進むに従つて頽廃の一路を辿るものと決めてゐる学者や思想家もあつたくらゐで、それはつまり、「文化」と「民族」、或は「国民」との一体関係に想ひ到らなかつた欧米近代思潮の偏向によるのであります。
 更に、日本の文化は、現代の表面的混乱にも拘らず、民族の輝かしい歴史と、国土の豊かな伝統とによつて、その特質は今なほ溌剌たる生気を保ち、時に応じ、国民決死の相貌となつて、強敵を粉砕する力を示すのでありますが、しかし、一面に於て、日本人が甚だ不得意とするやうな、いはゞ、弱点がなくもないのです。そして、その面に対する敵の反攻も秘かに企てられてゐないとは保証できません。その弱点とは、すなはち、文化能力のある部分の渋滞に外ならず、これを是正促進しない限り、長期消耗戦に対する完璧の備へを誇るわけにいかぬと信じます。
 こゝに於て、「力としての文化」といふひとつの見方から、新しい文化の建設が考へられるとともに、これこそ、国を挙げての努力に値する、実践運動の中心目標でなければなりませぬ。
「文化」とは、本文でも述べたとほり、すべて「文化」の名を冠して存在するものではなく、国民生活の全面に亘り、公私の行動を通じ、日本の姿、国風《くにぶり》として、何人にも無関係でないのみならず、また、何人もこれに対していくばくの責任を負ふべきものであります。
 一人の青年は、なんらかの意味に於て、それぞれの立場で、日本の「文化」を身を以て示し、しかも過去及び現在のみならず、実に明日の日本の姿を、大きな夢と共に宿してゐる若々しい存在です。
 昭和十六年九月、私は左のやうな一文を公にしました。これをこゝに再録して、私の青年諸君に対す
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング