陽性なることも注意すべきであらう。一口に「さばけて」ゐるといふが、粋な「さばけ方」とハイカラな「さばけ方」とでは、格段の差がある。
私はここで、「ハイカラな文学」について語りたい。
日本文学に於いて、ハイカラな作品といへば、私はまづ、指を「枕草紙」に屈することを躊躇しない。「源氏物語」にも、多分の「ハイカラ」性を発見するが、恐らくあの時代の女性中でも、わが清少納言の如きハイカラは少なかつたに違ひない。彼女の生活はあまり多く知られてゐないが、その芸術を通じて観た「ハイカラさ」のみについて考へても、現代の作家たちさへ、なかなか及び難いものを感じさせられる。
私はまた、源実朝をハイカラな詩人だと思つてゐる。それは、武将にして歌詠みであるといふやうな事実からではない。その歌風についていふのである。
徳川期の文学はさすがに、「ハイカラさ」に乏しいやうである。ここでは寧ろ、「粋な文学」の代表的なものが多く生れたとでもいふのであらうか。
明治以後、かの当時ハイカラとされたに違ひない新体詩の如きは、ハイカラならざるものの骨頂である。
明治時代の小説家を、私は殆ど読んでゐないから、うつかりしたことはいへないが、なんとなく、山田美妙斎といふ人はハイカラではなかつたかといふ気がする。
ハイカラ詩人として、私は与謝野晶子夫人、並びに初期の北原白秋氏を挙げたい。
現代作家中では、芥川竜之介氏、佐藤春夫氏、室生犀星氏、などは、多くの「ハイカラさ」をもつた作家であらうと思ふ。新進作家のうちで、稲垣足穂氏、川端康成氏、横光利一氏、林房雄氏などの文章はハイカラな方であらう。
かういつたからとて、何も、私は、ハイカラなるが故に傑れた芸術作家だとは思つてゐない。そんなことは断るまでもないが、とかくさういふ勘違ひをされがちであるから、念のためにつけ加へておく。
しかしながら、私は、自分一個の趣味からいつて、上に述べたやうな意味の「ハイカラな文学」が、もう少し盛んになつてもよくはないかと思つてゐる。それについては、世間にもう少しよい意味の「ハイカラ好み」が殖えてくれればいいがと思つてゐる。一見ハイカラさうに見えて、その実、ちつともハイカラでない青年男女、さういふ青年男女を見るにつけて、私なんか、ちつともハイカラでもなんでもないが、少くとも、ほんとにハイカラな人々に取巻かれてゐる快感を空想
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