らなかつた。彼女らはまた、男ばかりが散歩に行くことを不平に思ひ、女ばかりが子供を生むことを少し残念がりはしなかつたか。
 かう云つてくると、「ハイカラ」なる言葉は、思想に触れてくる。そして、生活そのものに触れて来る。
 さて、上に述べたやうな意味に解すると、「ハイカラ」といふ言葉は、「西洋風を真似ることによつて、しやれ、かつ気取る」意味であり、いはゆる「当世風」とか、「現代式」とかいふ言葉と、一脈相通ずる意味さへ含むことになるが、私はこの「ハイカラ」といふ言葉を必ずしも「気障《きざ》な当世風」、乃至「軽薄な西洋かぶれ」とのみ解しないで、かの「粋」といふ言葉の如く、今日、われわれの生活、われわれの趣味、われわれの文学中に見る一つの「美」の要素として考へて見たいのである。
 実際、今日、われわれは、よき意味に於ける「ハイカラな男女」「ハイカラな生活」を知つてゐる。われわれはまた、よき意味に於ける「ハイカラな趣味」を感じ、「ハイカラな文学」を見てゐる。この場合「ハイカラ」とは、そもそも、何を指すのであるか。私はそれが必ずしも「西洋風」に関係があるとは思はない。なぜなら、西洋にだつて、「ハイカラな西洋人」がゐる。ましてそれがいはゆる「当世風」であることも必要ではないと思ふ。なぜなら、昔、日本がまだ西洋と交通をしない前に、今日から見て「ハイカラ」な男や女がゐた。
 近頃は、「当世風」といふ言葉の代りに「新時代」、「現代式」の代りに「近代的」とか「モダアン」とかいふ言葉が使はれてゐるが、これも「ハイカラ」といふ言葉を定義するには役立たないと思ふ。なぜなら、「新しい」といふことは、「ハイカラ」の主要な点ではないのである。なぜなら、あるコンミユニストよりハイカラなインペリアリストがゐるから。また、その辺のいはゆる「モダアン・ボオイ」や「モダアン・ガアル」たちよりハイカラな、一見「普通」の青年男女がまだいくらもゐるから。私はここでこの言葉の言語学的穿鑿を企ててゐるのではない。いろいろに使はれてゐる意味をいちいち列挙する暇はないが、少くとも、「ハイカラ」といふ言葉に、気障の意を含めて、すぐに反感を抱く連中を除いては、私の今云はうとすることはわかつてもらへるだらうと思ふ。便宜上、「蛮カラ」といふ言葉をもつて来よう。この言葉は、たしかに、「ハイカラ」の正反対を指すものである。よい意味にも、
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