加した時代的特色が、寧ろ一種の『気障つぽさ』であるところから、かういふ事情に通じない見物は『シラノ』の一言一行に反感をもたないものでもない。
 さうなると、この戯曲は助からないことになる。無論、喜劇であるから、その辺の誇張もあり、その誇張から生じる効果は、作者の才気をうかゞふに足るものであることを知らなければならぬ。日本の旧劇俳優が、フランス風の機智をどこまで生かし得るか、これが恐らく、こんどの上演で一番興味のある問題であらう。この脚本は俳優コクランの為めに書卸ろされたものであるが、コクランといふ俳優は柄からいへばむしろ下世話風な、あるひは三枚目式な特色をもつてゐたので、ロスタンも、そこを考へて、『顔の不味い』主人公を選んだのだらうと思はれる。
 ところが、左団次は多くの点でコクランと対照的に特色をもつた俳優といひ得るので、容貌はメイキヤツプで思ひ通りになるとしても、演技の方では、左団次独特の『シラノ』が出来上るわけである。これは無論差支へない。また、しかたがない。かへつて、これが為めにフランス人好みの『シラノ』から遠ざかり、日本人好みの『シラノ』が出来上ることになれば、もつけの幸ひであらう。
 私も、『シラノ』の舞台はパリで再三見たが、コクランは残念ながらもうこの世にゐず、例の映画で日本にもお馴染のピエエル・マニエが主人公をやつてゐた。このマニエは顔はちよつと左団次に似てゐるが、芸はそれほどでなく、甘い通俗劇で『老けた色男』をやるのが身上である。
 それにしても、舞台はなか/\面白かつた。第一幕の『詩的決闘』の場はあつけなく済むが、第二幕目の『鼻づくしの半畳』は無性に痛快であり、第三幕目の『露台の接吻』は『不滅のシイン』と定評があるだけ作劇上の一大創造であると感じた。第四幕から第五幕目にはいると、これは、日本人に最も受けさうな――フランスでも見物のすゝり泣きが聞えるところだが――修道院における『シラノ』臨終の場である。左団次の演技も、恐らく、この場において最もその真髄を発揮するだらうと思はれる。沈痛な『高島屋の声色』は、秋の夕日を浴びて木の葉の如く散つて行く『シラノ・ド・ベルジユラツク』の『桂の冠も薔薇の花も!』といふ名せりふにぴつたりはまつてゐるのではあるまいか。
 ついでにいひたいことは、この種の翻訳戯曲が、今日の商業劇場で上演されることによつて、なにか日本の
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