一家は左門町に引越した。向ひ側にMといふ同級生がゐて、そのお父さんが画家だつた。それは日本画の方に相違ない。襖だと思つてゐたのは、今考へると屏風で、草の葉の間を蛍が飛んでゐる画を描いてゐた。先づ小さな丸い紙片を処々に貼つて、その上を一面に薄墨で塗り、あとで紙片を剥がすと、蛍の尻ができてゐる。それから、月を描く時、茶碗をふせて、そのまわりにやはり、墨を塗りつけた。「ずるいなあ」と思つた。

     痴情沙汰

 風呂場が騒々しかつた。朝である。
 母の後ろからなかをのぞくと、女中のよし[#「よし」に傍点]が、壁にもたれて泣いてゐる。馬丁のオカドが右手に木鋏を持つて、そのそばに立つてゐる。よしの髪の毛が半分、オカドの左の手から垂れてゐた。

     学問

 僕は尋常小学で何を習つたか覚えてゐない。読方は、ハタ、タコ、コマ、カマといふ文句だけしか習はないやうな気がするし、習字は、小野道風の表紙がついた習字帖のことだけしか記憶にない。そして、先生は「三ツ口」といふ綽名だけが頭に残つてゐる。
 そのくせ、穢い女の子と並ばされたうら[#「うら」に傍点]悲しい気持だけが、馬鹿にはつきり浮んで来るのはどうしたものか。

     旅行

 小学校にはひる前、旅行をしたのは、熱海へ行つた時だけである。おやぢが、馬で怪我をした、予後の保養かたがた、温泉を選んだものと思はれる。
 熱海といつても、温泉が時間をきめて噴き出すことと、顔ぢう火傷のあとのある宿の女中のことと、海へキシヤゴを取りに行つたことと、「渡るに安き安城の……」といふ歌を唱ひながら、おやぢと一緒に山道を歩いたことと、ただそれだけが想ひ出の全部である。

     おやぢ

 おやぢは僕を兵隊にしようと、その頃から思つてゐたらしい。そして、僕が、後年、文学をやり出したのを見て、心甚だ平かでなかつたのは確かである。
 然るにおやぢが、嘗て、一篇の新体詩をものしたことのある事実を、最近に至つて発見したのである。
 それは、日清戦争が始まつて、将に戦地に向はうとする時、宇品から、母に送つたものである。勇壮な歌調、しかもおのづから纏綿たる情緒を漂はせたものであることはいふまでもない。一介の武弁、あれでも三十にして多感の詩人であつたかと思ふと、僕の幼時は、案外文学的に恵まれてゐたかもしれぬ。

     お伽噺

 少年世界は、
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