は必ずしも洗練のなかにあるとは限らない。素朴な、原始的なすがたのなかにもある。田舎にも、未開国にさへも、女らしい女はいくらでもゐると云へば当り前なことだが、女が「女らしく」なくなるのは、ある種の頽廃であることに気がつかなくてはならぬ。さういふ変化を故意に求める傾向が、不健康な社会には発生し易いのである。
 但し、現在の日本などで、ある種の女のひとが「女らしさ」を失つたと批難されたとしても、それは、まづ批難する方のひとを吟味してかゝらねばならぬ事情がありさうに思はれる。歌舞伎や新派のみを芝居だと思つてゐる人が、たまたま新しい芝居を見物して、これが芝居かと腑に落ちぬ顔をするやうなことが、今はざらに起つてゐる時代である。「女らしさ」を単に弱さとか、受動性(控へ目)とか、時には批判力のなさとかいふやうなことに結びつけて考へる人々、殊にそれが男性である場合には、十分警戒を要すると思ふが、その警戒が実は、屡々ほんたうの意味に於ける「女らしさ」を無意識に色褪せさせるものだといふことにもすべての女性は気をつけて欲しい。
 所謂女の「コケツトリイ」が「女らしさ」とどう関係があるかについて考へてみれば一層この間の消息は明らかになる。この言葉の意味は「おしやれ」「おめかし」を含めて「相手の気に入るやうに努めること」であつて、まあ、身だしなみから「媚態」までが含まつてゐるわけだから、どつちみち女性の性的誇示とも云へるものである。女は男の玩弄物に非ずといふ精神から、苟くも「コケチツシユ」と思はれる一切の言動を、慎み、斥ける主義がある種の女の間に履行されてゐる風がみえる。この堂々たるデモンストレイシヨンは、たしかに女性の苦難史を飾る一頁であらうが、私に云はせれば、女のコケツトリイはそれ自身として排撃せらるべきものではなく、時と場所と度合を誤るかどうかに問題のすべてがかゝつてゐるのだと思ふ。
 賢明な本誌の読者諸嬢は、もうとつくにご承知の筈だが、美しい恋愛も幸福な結婚も、男性の側から云へば、常に対手の女性の「清純なコケツトリイ」によつて導かれるものである。(「婦人公論」昭和十四年二月)



底本:「岸田國士全集24」岩波書店
   1991(平成3)年3月8日発行
底本の親本:「現代風俗」弘文堂書房
   1940(昭和15)年7月25日発行
初出:「婦人公論 第二十四年二月号」
   193
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