力を生命とする職業人の「男らしさ」の誇張とともに、現代に於ける一対の喜劇であることは云ふまでもないが、「女らしさ」を酔興にも脱ぎすてようとする女があるとすれば、それは、その目的を完全に達し得ないばかりでなく、人間としての一切の魅力を喪失する悲劇を演じるわけである。
 女は生れながら一種の僻みをもつてゐるといふ人がある。ほんとか知らと思ふくらゐだが、よく女のひとが、うつかり、または戯談めかして自分が女に生れたことを悔むやうな口吻をもらしたりするところをみると、日本の現状に於いては、或はそんな事情も察せられないこともない。少くとも現代のインテリ女性は、その僻みのために、非常に「女らしさ」の表現があやふやだ。
 それは固より個人の罪ばかりではない。さういふ現象を生む文化的な欠陥――或は未完成さが現在の日本にはあるのである。旧い伝統が次第に破壊されて、それに代るべき新しい生活様式がまだ統一した形で示されてゐないといふことはみんなが知つてゐることである。
 その生活様式の不統一といふことが、あらゆる風俗の混乱と趣味の低下を招いてゐるのである。
 新時代に応はしい「女らしさ」の表現は、さう易々と個人の工夫や努力で生れるわけはないのであるが、その方向だけは、なんとはなしに、近頃になつてきまりかゝつてゐるやうである。
 さう云へば、男の方でも、こゝしばらく「男らしさ」などといふことについての自己批判を忘れてゐたことは事実である。これは、たしかに重大なこととして今日省られなくてはならぬだらう。これも、結局は表現の貧しさに帰着する。男が男らしければ男らしいほど、女は女らしくなるとも云へ、その因果関係は案外単純なものではないかと思ふ。
 たゞ、この雑誌などで「女らしさ」といふ問題がまつさきにとりあげられるところからみても、まだ、女の方が自分を厳しく詮議するところがあるやうである。私は、だからと云つて、別に女の弁護をするつもりもないけれど、若し女のひとにも云ひ分があれば、それは是非、聴かしてほしいと思つてゐる。
 ともかくも、女性の特質たる「女らしさ」が、その肉体的精神的の表現として、最も魅力的なものであるために、ひとつの標準といふやうなものが自然に形づけられなければならぬ。それは、前にも述べたやうに、一時代、一民族或は一階級のうちに、それぞれの理想を見出すことはたしかだとして、一方、さう
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