は、件の「田舎」弁を操る社会的成功者である。
ただ、俳優だけには、絶対に発音の不正と、訛りの過多を許すわけに行かない。なんとなれば、彼等は、商売道具を精選しなければならず、その道具は、「総ての言葉」を正しく、美しく、はつきり、自由に出し得ることが肝腎であり、「シンブン」を故ら「スンブン」と発音するのは差支へないが、「スンブン」をどうしても「シンブン」と発音できないことは、致命的弱点となるからである。
訛りに関連してアクセントの問題は、近頃いろいろ自分でも疑ひをもち出してゐるのである。ここでは、一つ面白い話を紹介すると、名古屋弁のアクセントは甚だ特徴のあるものであるが、私の友人で、その名古屋生れのチヤキチヤキが、仏蘭西語をやつてゐて、その仏蘭西語が、また、われわれの仏蘭西語と少し調子が変つてゐるのである。向うの方が上手なのかもしれないから、うつかりそれは間違つてゐるとも云へずにゐると、その男が、ある時、仏蘭西人の前で本を読んだのである。すると、その仏蘭西人は、果して、その変な調子に気がついたとみえて、しばらく、その男の顔を見てゐたが、やがて、にやにや笑ひながら、「君の仏蘭西語は、マルセイユ人の仏蘭西語そつくりだ」と宣告した。
六 表情
「語られる言葉」の効果を間接に助けてゐるものは、顔面の表情と、身ぶり手つきであるが、殊に顔面の表情は、「語られる言葉」そのものと分離して考へることは、困難なほど密接な関係をもつてゐる。
普通、眼の表情を第一に問題とするのであるが、ある人の説によると、口の表情がこれに劣らず重大な要素であると云つてゐる。これに次いで小鼻の表情が大切である。私の知つてゐる範囲では、ヴィユウ・コロンビエ座のジャック・コポオは、鼻も特別大きかつたが、その小鼻の巧みな動かし方に於いて、正に巴里の群優を抜いてゐた。例へば、小鼻をいつぱいに膨らまして、鼻の下を心持ち長くすると、それだけで、「君が今云つたことは、そりや嘘だらう」といふ意味をはつきり表はしてゐるのである。かうなると、これはもう立派な「言葉」である。
まして、「言葉」の間接手段たる身ぶり、手つき、その他一切の科《しぐさ》は、顔面の表情と共に、ある場合にはそれのみで人間の思想感情を的確に伝へるものである。そこから、黙劇が成立するのであるが、そして、日本人は最も黙劇のへたな国民であるが、そ
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