い。近頃日本の新劇が行き詰まつて来たといふ声を聞くのは、要するに俳優自身の教育がおくれて、芝居が下手だといふことによるのだと私は思ふ。いゝ脚本といふ点では、まだ/\外国の優れた作品などでも上演されないものが大分あるし、芝居は割合に平凡な作品でも俳優が上手であれば、ずゐぶん面白く見られることがあるので、脚本の開拓方面ならば相当に豊富であると云へる。
とは云へ勿論、厳密な意味で俳優教育といふものが出来るかどうかは疑問で、要するに実際的の指導を与へることによつて、俳優自身のもつさま/″\の才能を見出し、引出すことである。さういふのも、今後次第に新劇俳優の地位が高められて、将来どの方面に行つても相当にやつてゆかれるやうな教養や才能のある人物が俳優になれば、現在の新劇の行詰りは自然に打開されるものである。
で私はこの初演の失望によつて、作家として舞台の上に描いてゐた理想をはげしく打ち破られたけれども、同時にこの幻滅は、私が日本の新劇といふものを全然念頭においてゐなかつたといふ事実にもよるものであるといふことに気がついたのである。日本の芝居は旧劇を見ても、新劇を見ても感じることがあるが、芝居を書く人々は常に現在の舞台から色々の霊感を受け、はつきりとどの役者に当てはめて書くといふわけでなくても、現在の日本の俳優の能力とか、人柄とか云ふものを、無論無意識にではあるが、絶えず頭に入れて書いてゐる。
ところが私の芝居の概念は殆んど、西洋、殊にフランスからばかり受けてゐると云つてもよいので、外国から帰つて自分の作品が上演されるやうになるまで、私は日本の芝居といふものを殆んど見たことがなかつたのである。それで、私は自分の作品を、日本の舞台にかけるものとして具体的に考へて見ることなく書いた。現在の新劇の俳優がどういふ演伎をするか、またどんな教養をもつてゐるかといふことを全く知らないで書いたといふところにも、初演の時の大きなギヤツプがあつたわけである。併し、さういふ私が、最近になつて却つて日本の俳優にはまるやうなものを書くといふ皮肉な結果になつてゐる。
そして、これは其の後になつて考へついたことであるが、私の作品は脚本の種類によつて、不味くゆくと恐ろしく不愉快なものになつて、我慢のならないやうなのと、特に作者の意図が巧く出なくても、比較的面白くはないと云ふだけで、不愉快にならないですむものがあつて、初演の時のは不幸にしてその初めの方だつたわけである。
委しく云へば、写実的な、問題として比較的厳粛な事件や境遇を取扱つた作品は、俳優が少々下手でも、十分な効果が上らないといふ程度で、不快で見てゐられないといふことはないけれども、私の作品のうちで、どちらかと云へばロマンチックな傾向のものとか、リヽカルなもの、またはユーモアやウヰットなどを主にしたものは、気分が主な要素になつてゐるだけに、悪く行くと鼻持ちのならない醜悪なものになり易いのである。つまり、さういふ危かしさを持たない、手堅い作品ならば、一番無難であるとは確かに云へると思ふ。
底本:「岸田國士全集20」岩波書店
1990(平成2)年3月8日発行
底本の親本:「文章倶楽部 第十二巻第十一号(戯曲研究号)」
1927(昭和2)年11月1日発行
初出:「文章倶楽部 第十二巻第十一号(戯曲研究号)」
1927(昭和2)年11月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年2月17日作成
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