劇作をするのに舞台の実際を知つてゐた方が都合がいゝ、勉強のために舞台の経験をするのだと考へてゐる人が、今の若い人達の中には多いやうであるが、私は創作をするのに在来の舞台上の約束などゝいふものは大して必要ではないと思ふ。創作家はある意味で、舞台の実際問題としての不便や、窮屈さに煩はされないで、あくまでも自分の理想を高く持して進むことが必要である。しかるに、舞台の実際、殊に現在の俳優の能力をあまり委しく知りすぎてゐると、無意識の間に上演の結果を考慮に入れて妥協するやうになり易く、したがつて創作の態度が不純なものになり勝ちである。

 私は最初の上演には、舞台の上の一切のことを人に任せて、自分はたゞそれを見てゐるだけであつた。さういふ実際の仕事に当るには、俳優の一人々々について、その性格や、才能や、素質など委しく知つてゐなくてはならないものであるが、私はその方面の知識を少しも持つてゐなかつたからである。
 作者が自分の作品を演る稽古に立ち会つていろ/\注意したり、自分の気持を伝へたりすることは、作品の解釈といふ点から云つても、隅々まで注意が行き届くといふ点から云つても、必要なことであるには違ひない。併し、私の場合のやうに、現在の日本の新劇といふものに、どうもぴつたりしない傾向の作者には、なまじひに口を出したり、関係したりしない方がいゝやうに思ふ。
 話は少し横道であるけれども、元来私の見て来たフランスでは、舞台監督は大体において、一座の主な役者の一人である場合が多い。さういふ舞台監督は舞台の実際上のことに経験もあれば、役者の一人々々について、手を取つて教へることも出来るわけである。
 これが独逸流に行くと、舞台監督は学者とか理論家とか云ふ人達が主なので、自分が俳優としての経験を全然持たないのだから、実際に具体的に指導することは殆んどない。さういふのは俳優の自由な才能を尊重する意味では甚だ当を得たやり方で、無理に一種の型を強ひると云ふやうな事は決してない。けれどもそれと同時に、幾分俳優を人形視するといふ観念の方が先に立つことが往々ある。
 日本などは早くから独逸流の仕方を採用した結果、主に新劇について云へば、舞台装置とか、舞台監督とか、照明などつまり、趣向といふ方面では相当に新らしい充実したものを見ることが出来るけれども、それに比較して俳優の個人々々の芸が少しも進歩してゐな
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