3年であつたが キール大學よりベルリン大學に移つてから間もない時分であつたから專らキルヒホツフの講義を蹈襲していた。聽講者は僅に30名くらいであつたが1年を經ずして100人を越した。その講義の大要は邦譯されている。
自分が最も先生の研究方法に敬服している点は理論を攻究するに 常に實驗結果に精通していることである。ベルリン大學で卒業生學生諸教授は毎週談話會(Colloquium)を開いて理論 實驗に關する報告論文等を批判する。先生は毎會出席して辯論し 實驗結果の良否を判斷し針路を指示するを常としている。即ち實驗は理論を築く源泉であるから 當然ではあるが 理論家は兎角實驗を忽にして失敗する。惡材料で堅牢な建築ができる筈はない。これを知りながらその調査を怠るは無謀である。深く戒めねばならぬ。
先生は屡々轉宅されたが 終に郊外グルーネワルドの松林内に閑靜な庭園付きの家に移られてから世界第二大戰まで住まわれた。大學まで約半時間 市街鉄道で通われた。勞働者と區別できない粗服をひよろ長い体に※[「纏」の「广」に代えて「厂」、25−左−26]うて 泰然自若であつた。これは大學教授の習慣で 丁度高等學校生徒が 破帽弊靴で街路をねり歩くと同樣の心理状態に基いているから 敢て批評の限りではない。かくて宅を訪問すれば質素な紳士であつた。書齋には飾の無い書棚が列をなし 卓上は清淨塵埃を留めず フアウストの讀書室とは全く趣を異にしていた。先生が松風颯々たるを耳にしつつ自然の恒數 h を案出された遺跡を偲ぶも無駄ではあるまい。
先生は音樂を好まれ 特に純正調につき啓發するところありし故田中正平博士と親交あり 特に先生の考案せるピアノがあるそうだが 他人はこれを彈くことができぬと噂されていた。自分は音樂に趣味少いから 遂に窺う閑はなかつた。
また夏はバイエルンに出懸け 80歳を超えても山登りで健康を保持していた由である。昨年89歳で逝去されたが 老齡 その開拓された量子論が光輝を放つを視たのは 幸福な學者であつたことを裏書きする。
1931年は フアラデーが誘導電流を發見してから100年に當り 更に電磁氣學を現今の論據に確立したマツクスウエルの誕生より100歳を經たので 世界の學界から代表者を送り 祝賀の意を表した。
殊にケムブリツヂ大學は マツクスウエルが教鞭を執りし舊蹟であれば 大學より招待により著名なる物理學者電氣工學者會合し 祝意を兼ねて互に談論した。その節プランク先生は宴會において縷々マツクスウエルの功績を英語で述べられたが 先生の英語演説を聽いたのはこれが初めてであり また終りであつた。
この席に列した外國よりの參加者は ケムブリツヂ大學から 名譽理學博士の稱號をもらつた學者多く 學位服である緋の衣を着ていたから 異樣な觀を呈した。自分もこの服を※[「纏」の「广」に代えて「厂」、25−右−14]うて先生と對座したが 先生も伴われた夫人も 門弟とこの盛宴を共にするを非常に喜ばれた。別るるに臨み 再會を約したがその後戰亂相繼ぎ 遂に永訣となつた。これを想えば涙※[#「さんずい+(林/日)」、第4水準2−79−24]然たらざるを得ない。
今や原子に關する研究は 世界を風靡している。誰か h の有難味感ぜざるものあらん。將來 h の眞相を摘抉するものこそ第二のプランクと稱すべく恰もマツクスウエルを第二のニウトンとして尊奉するが如くなるであろう。敢て青年才士の努力を希願する。
[#地から2字上げ](筆者は日本學士院院長・理博)
底本:「科學朝日 2月號」朝日新聞東京本社
1948(昭和23)年2月1日発行
初出:「科學朝日 2月號」朝日新聞東京本社
1948(昭和23)年2月1日発行
※底本は横組みです。
※底本には表題・著者名と本文の間に編集者によると思われる一文が挿入されていますが、著作権者不明のため省略しました。
※読点に空白を宛てたと思われる扱いは、底本どおりです。
※混在する「ラザフオード」と「ラザフーオド」は「ラザフオード」に統一しました。
入力:小林徹
校正:kamille
2006年9月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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