得なかつた。
感動が到る処にあつた。
やがて此|報知《しらせ》が上田の町家《ちやうか》の戸《こ》から戸へ伝へられると、その夜の静かに燃える洋燈《らんぷ》の下では、すべての人々がすべての理由を忘れて父の立派な行為を語り合つた。
七
葬式の日はうつすらと晴れ渡つた。
葬列の先には楽隊がついた。私にはそれが非常に嬉しかつた。私は黒い紋附の羽織を著て、其の裏のしう/\鳴るのを聞き入り乍ら、香炉を持つて棺の後ろに従つた。前には四歳上の兄が位牌を捧げて子供らしい威厳で歩いてゐた。吾々のうしろには殆んど全町の知識階級を挙げた長い長い葬列がつづいた。男女の生徒が其半ばを占めた。女の先生、女の生徒の中には眼を赤めてゐる人もあつた。
沿道では女の人などが自分らを指して何か云ひ合つてゐた。私にはその批評されてゐるといふ意識が何となく愉快であつた。それで自分も出来るだけ威儀をつくろつて歩いた。何と云ふ妙な幸福を父の死が齎《もた》らした事であらう! 私はもう偉大なるものゝの影が[#「ものゝの影が」はママ]伝ふる感動の中に、心から酔ひ浸つてゐたのだ。……
葬列は町を出て田圃道にさしかゝつた。行手には大きな寺の屋根が見えた。そしてそこからは噪音《さうおん》の中《うち》に、寂びを含んだ鐘の音が静かに流れて来た。私は口の中で「ぢやらんぽうん」と真似をして見た。併し実際はさう鳴つてはゐなかつた。
葬列がすつかり寺庭《じてい》に着くと、式《かた》の如く読経《どきやう》があつた。そして私は母と一緒に焼香した。それから長い長い悼詞《たうじ》が幾人もの人によつて読まれた。それらの多くには大概同じ事が書いてあつて、読む人々の態度が少しづゝ異つてゐるだけであつた。そしてどの人もどの人も「嗚呼哀しいかな」と感情をこめて折り返し折り返し読んだ。
悼詞半ばにして私はふいに小用が足したくなつた。そして、こんな場合にこんな状態になる自分を自ら叱らうとした。けれども此の生理的の力に小さい少年の努力がどうして打克《うちか》てよう。悼詞ももう耳へは入らなかつた。私は危ふく父の葬式に出てゐる事も忘れて了ひそうになつた。それでたうとうそつと逃げ出してどこかへして来ようと決心した。
その時やうやくある一人の人が読み終つた。私はそれを潮《しほ》に何気なく後ろへ退き、皆の注視圏外へ出ると一散に寺の境の木立を目がけて走つた。そこにも誰かゞ見てゐるとは思つたが、思ひ切つて用を足した。
蘇つたやうな思ひで元の所へ戻りかけ乍ら、自分は初めて寺庭全体を見渡した。そこには黒い黙つてゐる人の群がしんとして重なつてゐた。何となく無言の悲哀が人と人との間にあつた。私はしばらく指を唇にあてゝ、此黙つてゐ乍ら力み出す黒い団《かたま》りに見入つた。何だが涙がそうつと込み上げて来た。
その時一人の黒い洋服を着た人が私の肩を叩いた。其人は私がふり向く間もなく私の手を、しつかり握つて幾度か打振り打振りかう云つた。
「お父さんのやうにえらくなるんですよ。お父さんのやうに偉くなるんですよ。」
私はぢつと其人の顔を見てやつた。眼の中《うち》には明るい涙が浮んでゐた。それで私の方でも手をしつかり握り返して点頭《うなづ》いた。
傾きかゝつた夕日の黄ばんだ光りを浴びて、私とその見知らぬ人とは手を握り合つたまゝ、暫らく黙つてゐた。
私は此時のかうした感激の下に永久に生きられゝばよかつたと思ふ。
底本:「ふるさと文学館 第二四巻 【長野】」ぎょうせい
1993(平成5)10月15日初版発行
初出:「新思潮」
1916(大正5)年2月号
入力:林 幸雄
校正:鈴木厚司
2009年1月22日作成
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