て、連れを顧みて何か云はうとしたが、止めた。
 私は進んで小さな声で「お父さん。」と呼んでみた。何か一言父に向つて云はなくちやならぬやうな悲痛なものを、父はうしろに脊負つてゐたのである。
 父は黙つて四辺《あたり》を見廻し、やつと其声の主なる私を見つけると寧ろ不審がつた顔附をした。そして何とも答へずに連れの人とそゝくさ去つて了つた。私は父が私だと認めたのかどうかを思ひ惑つた。併し再び呼びかける勇気はなかつた。それで一人父の後ろ姿を眺め乍ら、涙ぐましく指を噛んだ。
 古い群集は散つて、新らしい群集が、更に多くの数を以て其席を満たした。そしてそこでも新らしく御真影の噂と、父の話が聞かれた。或る人々らは此の小さな息子がそこに長い間|佇立《ちよりつ》してゐるのを認めた。併し其眼が涙ぐんでゐるのを見出す程には、此少年に興味を持たなかつた。

     五

 暫らくして家へ帰ると、父も帰つてゐた。併し書斎に入つたきり、見舞ひの人が来ても不快だからと断つて出て来なかつた。私は兄から父が何か大変心痛してゐるのだと云ふ事を聞いた。そして母からは書斎に人の入るのを禁じて、何か一生懸命書き物を調べてゐる由を教へられた。
 息を潜めたやうな不安が家中に漲つた。誰も彼も爪尖《つまさき》で歩くやうな思ひで座敷を出入した。すべての緊迫した注意が書斎に向けられた。家中はしんとしてゐた。そして書斎から起る音は紙一枚剥くる音でも異常な響を齎《もた》らした。只時々、此の白らみ渡つた静寂に僅かな動揺を与へるものは、寝てゐる姉の空虚な咳であつた。
 お昼になると母が襖の前で、(中に入ることを禁じられてゐるので)
「お昼ですが、御飯を召上つてはいかゞです。」と父に呼びかけた。襖を隔てた書斎の中では、何か紙をぴり/\と裂く音がした。そして其次の瞬間には父の錆びた重みのある声が響いた。
「俺はまだ食べたくない。あとにする。」
 母は其声の中に明かに何物かに対する腹立たしさと、何物かに対する信念を読んだ。しかも其声が何となく焦《い》ら立《だ》つて老人のそれに彷彿してゐるのを悲しく感じた。
 母は黙つて襖の前で首を垂れた。
 父は三時になつても四時になつても出て来なかつた。そして書斎ではことりと云ふ音もさせなかつた。夕飯になつても出て来る様子がなかつた。家中の人は眼を見合はすのさへ憚《はゞか》るやうになつた。お互ひの眼の中に疼《うづ》いてゐる不安をお互ひに見たくなかつたのである。
 たうとう堪《こ》らへ切れなくなつた母は、母らしい智慧で父の様子を知る一策を案じ出した。母は私を隅の方に呼んで此方策を授けた。それは私が厳重に禁《と》められてゐる囲みを破つて、無邪気に書斎に侵入して、父の動静を見て来ると云ふのである。
「お前ならね。お父さんだつてきつと怒りはしないよ。いゝから知らない振りをして入つて行つて御覧。」
 と母は云つた。母に取つての父は、子にとつての父よりも或場合遥かに怖ろしいものであつた。私はかう云ふ母の眼の中にある弱きものゝ哀願をぼんやり心に沁みて聞いてゐた。そして私の心は先づ此の母に対して大任を果しうる嬉しさと、無邪気の仮面の下に隠れて行動する快感とに閃めいた。それで妙な雄々しさを感じ乍らその云ひ附けに従ふ事になつた。
 私は書斎の襖の前に立つて、暫らく躊躇した。自分の今行はうとする謀計《ぼうけい》に対する罪悪の意識が、ちらと頭に浮んだのである。併しそれはすぐ消えた。それより大きな感情上の勇気と好奇心とがそれを圧倒したのである。私は鳥渡《ちよつと》身じまひを直して、それから自分が飽く迄無邪気を装ひ得るといふ大なる自信の下に、襖の引手をするりと引いた。
 八畳の書斎の中央に、一|閑《かん》張《ば》りの机を前にして父は端然と坐つてゐた。そして其眼はぢつと前方遠くを見凝《みつ》めてゐた。机の上には一冊の和本と、綴ぢた稿本《かうほん》とが載せてあつた。私はすぐに父が詩を作つてゐるのだなと思つた。そして父の姿に予期してゐた動揺の少しも現はれてゐないのに落胆をさへ感じた。父の体全体には平静があるのみであつた。併し其永遠を見凝めてゐる眼の中に、永遠に訴へてゐる懊悩のあるのを、どうして此の少年が見出し得よう。私は今朝の父と、今の父とに明かな変化を認めて了つた。けれども其変化が一つは動一つは静であるだけで、等しく同じ襖悩の表現であるのを知らなかつたのである。
「お父さん、どうして御飯をたべないの。」
 私は咄嗟の間にさう聞いた。父は静かに顔を私に向けた。広い白い薄あばたのある顔がしばらくぢつと私の方に疑ひ深く向けられてゐた。
「食ひたくなつたら食ひにゆく。」父は云つた。そして叱るよりは、願ふやうな軟かさを含して、「辰夫。おまへも此処へ入つて来ちやいけないぞ。」と云つた。
 私はその平
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