もう首をだらりと伸ばしたまゝ横になつて了つた。
それから彼は一つの手函《てばこ》を持ち出した。それは方一尺あるかない小さな桐《きり》の白木で出来てゐて、厭に威嚇するやうな銀色の大きい錠が下りてゐる。彼はそれをぽん/\と叩《たゝ》いて見せて、
「さあこれは御覧の通り、種も仕掛もない函です。どなたかこれに何ぞお入れ下さい。私が透視してお眼にかけます。」
一人の事務員が面白がつてそれを室の隅へ持つて来た。そしてポケットから恰度《ちやうど》其日用があつて入れて置いた巻尺を取り出して入れた。
手品師はそれを受取ると五尺ほどの足のついた台上に置いて、自らは蝋燭《らふそく》を点《とも》し、箱の上下左右を照して、暫《しばら》くはぢつと目を瞑《つぶ》つた。
事務員たちは手品師の困惑してゐるらしい態《さま》を見て、幾分か嬉しい気分になつて私語《さゝや》き合つた。
「これは世の常の物ぢやありませんね。」やゝあつて手品師は云つた。「長さから云へば四五尺で細長い紐《ひも》のやうなものです。そして何だか蛇のやうにとぐろを巻いて居ります。それから小さな金具が着いてゐますね。どうもお意地がわるく|六ヶ《むづか》しいものを入れて下すつたんで困りましたよ。どうです、少しは当りましたか。」
彼は機嫌《きげん》をとるやうに事務員の方を向いてさう云ひ乍ら封印を切つた。中からは巻尺がもとのまゝで出て来た。
「なるほど。」重役は感心した。
「あゝものさしですね。だうりで測り兼ねましたよ。」と手品師はその洒落《しやれ》が云ひたいのでわざと当てなかつたのだと思はれる位、流暢《りうちやう》に云つた。皆は又一しきり哄笑した。彼は益※[#二の字点、1−2−22]得意になつて云ひ続けた。
「では一つ皆さんのはつ[#「はつ」に傍点]と思ふ奴をお目にかけませう。千里眼なぞは実は函を受取る時に音を聞いたり、そつと見たりするのですが、これこそほんとの手練です。どこか此処に大根は売つてゐないでせうか。」
「おひさちやん、おまへ買つておいで。」と事務員が受付の女に命じた。
「だつて昼日中大根をさげて歩くのは可笑《をか》しいわ。」女が快活に笑つた。
「まんざらさうでもあるまいぜ。今からその位の世話女房の練習はして置くさ。」
「女房に仕手《して》なんぞありやしなくてよ。」
「ぢや私がなりませうか。」手品師が口を出した。女はひよいと肩をすくめた。
「ほんとに行つて来て呉れないか。」と終《しま》ひに重役が云つた。女は口で云ふほど厭らしい様子もなく、笑ひ乍ら大根を求めに出て行つた。
「あゝ鳥渡々々《ちよつと/\》。」手品師が呼びとめた。「しなびたのは不可《いけ》ませんぜ。あなた方のやうに水つぽくて一切りでさくと行くんでなくちやあ。……」かう云ひ乍ら、彼は案内女の方を向いて笑つた。
「では其間に一つ私の面《つら》の皮の厚さ……と云ふよりは額の骨の固さをお目にかけませう。ビール罎を一つ持つて来て下さい。」
ビール罎が持つて来られた。すると彼はその赤黒い罎をとり上げて事もなげにこつ/\と二度ほど額を叩き、三度目にぐるりと手を振り廻したかと思ふと、やつ! と云ふ懸け声と共に、眉間《みけん》を目がけて発矢《はつし》とばかり打ちつけた。すると其瞬間に彼の額の上から赭《あか》色の硝子片《ガラスかけ》がぱつと光を出して飛び散つた。人々が驚いてその顔の所在を探すと、思ひがけなくも彼はその少し赤らんだ額をまじり/\と撫《な》で乍ら笑つてゐる。……
「よく怪我《けが》をしないものだね。」しばらく呆気《あつけ》にとられてゐた重役が訊いた。
「えゝ。怪我をするだらうと思つて打ちつける時前へ引くと、切ることがあります。打ち付けたまゝ頭の方へ辷《すべ》らすやうにすれば、万に一度の怪我しかありません。」
暫らくするとそこへ大根を持つて受付の女が帰つて来た。
「ほう、これなら上等々々。あなたはお見立が大変お上手です。」手品師はもう渡り物特有の心易さでそんなお世辞すら云つた。そしていきなり自分の左腕をまくり始めた。可成《かなり》逞《たく》ましい赤黒い腕が、たくし上げた縞のシャツの袖口からくゝられたやうに出て見えた。人々は何をするのかと思つてその赤い腕とその上に載せられた白い大根とを見比べた。
「この大根を此の手の上で真つ二つに切つて御覧に入れます。御覧の通り此の手は贋物《にせもの》ではありません。そんなことを云ふと私のおふくろが怒ります。」
案内女たちがくす/\と笑つた。彼はそれに元気づいて云つた。
「ひよつとすると私は半分位此手を切るかも知れません。その時は御婦人方の中どなたかが血を啜《すゝ》つたり、白いハンケチで拭《ふ》いて下さるでせうな。では早速乍ら取りかゝりませう。」
手品師はきつと真面目《まじめ》な顔に還《かへ》つて、右手に少し長い刀を取り上げた。緊張がしばらく彼の顔に漲《みなぎ》る……額のあたりが少し蒼《あを》ざめて、眼が猛々《たけ/″\》しく左腕に注がれた。彼は明かに大根の厚さを計量してゐるらしかつた。そして一二度刀をふり下す拍子を取つて、さつきと同じく「やつ!」と叫ぶと、瞬《またゝ》く間に大根は二つに切断されて床上に散らばつた。
「まあざつとこんな調子です。」彼は吾れと吾が詭術《きじゆつ》に酔つたやうな顔をして四方《あたり》を見廻した。そしてその眼は不自然な凝視で以て重役の上に暫らく止まつた。
「いや御苦労。面白かつた。ではいづれ正式に契約するが、兎《と》に角《かく》チャリネ館へ出て貰ふとしよう。それから君は何か看板になるやうな肩書はないかね。新帰朝以外に。何かかう……米国皇族殿下台覧とでも云ふやうな、……」
「米国に皇族があるもんですか。」作者が笑ひ乍ら云ふ。
「なあに例《たと》へて云つたのさ。皇族が大統領でもかまひはしない。」
「では前大統領ルーズベルト夫人台覧と云ふ事にしませうか。」と手品師が事もなく云ひ放つた。
「そいつはいゝ。ルーズベルトなら獅子狩《しゝがり》にゆくから、その夫人は兎の眠るのを見る位な事はするだらう。」作者が皮肉に口をさし挾《はさ》んだ。
「ではさう云つておどかすとしよう。まああつちの応接間へ来給へ。給金を相談するから。」
かう云ひ乍ら重役は、普通の興行師とは異《ちが》ふ打明けた態度で手品師を誘つた。
手品師はそこらの道具を片附けると、もう一度女たちの方を見て、くすんと笑ひ乍ら米国流に尻をふつて従《つ》いて行かうとした。
其時作者が不意に「君!」と呼びとめた。彼の心にふとさつきの問題が浮び上つたのである。手品師といふ職業。彼は何んだかその心持を訊いて見たくなつた。
「君は初めつから手品師になるつもりで米国へ渡つたのかい。」
「いゝえ、初めは真《ま》つ当《たう》な仕事をするつもりで出かけたんですが、恰度食へなくなつた時、ある手品師の一行に入つて事務員見たいなものをやつたんです。すると見やう見まねでだん/\こんな事が面白くなつて来て、たうとう商売になつて了つたんですよ。」
「ふうむ。あの大根切りなぞは嘸《さぞ》練習が入るだらうね。あれをするのに何年位かゝつたい。」
「さうですな。初めは金箍《かなたが》をはめてやるのですが、かれこれ六年も毎日やりましたかな。」
「へゝえ、それだけの熱心を他のものに注いだら、立派な出世ができるだらうになあ。」
「それは時々私もさう思ひますんで。併し旦那、何しろ鳥渡面白うがすからな。一度この道へ踏み込んだら最後、二度と世間へは出られませんや。」
「さうかねえ。誰でも一度こんな商売をすると、もう足がぬけられないものかねえ。」作者はしみ/″\と自分に徹するやうに云つた。
「さうですよ。何しろ見物がわつと湧《わ》けあ、いつの歳になつても面白うがすからな。まあそいつを楽しみにしてやつてゐるんです。わつしだつて他に正直《まつたう》な商売があるもんなら、やりたいのは山々なんですよ。いやはや、これはお喋《しやべ》りをしました。御免……。」と云つて彼は応接間の方へ行つて了つた。
一としきり楽隊の音が騒々しく起る。するとそれを縫うて拍子木の音が響く。座の方では今第一回の連鎖劇が始まる処であらう。案内女たちも去つた。事務員たちも卓についた。併しこの若い作者だけはぢつと手品師の行つたあとを眺めて、黙想し乍ら立ちつくした。あゝ職業、職業。彼は先ず今日一日だけも此儘ゐなければならない。『二ちやう』と聞くと彼は急いで薄暗い楽屋裏へ急いだ。
[#地から2字上げ](大正五年四月)
底本:「現代日本文學大系 45 水上瀧太郎 豐島與志雄 久米正雄 小島政二郎 佐佐木茂索 集」筑摩書房
1973(昭和48)8月30日初版第1刷発行
1982(昭和57)9月5日初版第11刷発行
初出:「新思潮」
1916(大正5)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:伊藤時也
校正:鈴木厚司
2006年9月17日作成
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