。二人は「久野、しっかりやれ」と言って帽子を振った。久野は笑いながら樺色の帽子を脱いだ。「赤! 青!」と言うような一般的な応援の中で、自分一個にだけ向けられたこの言葉が久野にちょっとの間妙な、物慕わしい、感傷的な気持を起こさせた。その時の久野の官能は恐ろしくはっきり両岸の人の顔や声が一々見別け聞き別けられるように思われた。そして浅黒い松田の丸顔と、蒼白い成沢の細面とをごみごみした黒い観衆の中からはっきり区別し得た。渡し場から下流には要処要処に農科の応援船が一二艘ずついた。文科の選手らはその敵方の船から起る声援を寂しい心持で聞いた。一体に応援の騒ぎの中には寂びしい空虚があった。自分たちの心の緊張がそう思わせたのかも知れない。――と久野は思った。
 艇は発足点の赤い浮標《ブイ》に着いた。水路《コース》を見渡すと風は全く凪いでいるのではなかった。それは絶えず北東から吹いて来て艇首を左へ曲げた。久野はそれを直おすために、幾度も二番に軽るく櫂《オール》を入れさせなければならなかった。艇首を曲げたまま出発しては、たださえ浅草岸へ向きたがる艇の癖を、一層激しくするようなものである。水路を外れて浅瀬を漕いだ日には船脚の止まるのは明らかである。岸の審判所ではそのたびに文科の艇が出たので「櫂を入れるな」と叫ぶ、久野は気が気でなかった。そのうちに「用意」の令が下った。艇首はまた一瞬間の強風に曲げられた。「ええままよ、もうなるようになれ」と久野は眼を瞑《つぶ》った。号砲が鳴り渡った。久野は用意と号砲との間がほんの一瞬時であったのに、ひどく永いように思った。二つの艇の櫂は同時に水に入った。
 久野の眼には敵の艇と自分の艇の前方に白く光っている水路のほか何もなかった。
 久野の艇はどうも滑り出しがよくなかった。「こいつはいけない。皆慌てたな」と窪田と久野は同時に思った。敵艇を見ると確かに一二シートはこっちより出ているらしい。「ゆっくり!」と窪田が叫んだ。久野はさらに大きな声でも一度その言葉を全艇に伝えた。皆の調子がやっと合い出した。この時競漕中敵の艇を野次るので有名であった農科の舵手が、「敵艇を抜くこと約半艇身!」と叫んだ。久野はたちまちその後を受けて「嘘《うそ》だぞ」と怒鳴った。今まで黙っていた久野は一度その言葉を言ってしまうと急に口の緊りが解けたような気がして、恐ろしく雄弁になった。そのうちに農科の三番が一つ大きなスプラッシュをした。水煙が鮮かにぱっと上った。久野は機を得たと言わぬばかりに、「やったぞ。あんな大きなスプラッシュを」と叫んだ。それを見た者も、見ぬものも皆この言に元気づいた。敵の艇はかえって久野に野次られて沈黙してしまった。やっと二つの艇は並んだ。そして水門前で文科は約半艇身先んじていた。農科の舵手はそれでも「向うはもうへたばったぞ!」なぞと言った。久野も「なあにこっちが出ているぞ!」と応酬したりした。しかし心持にはちっともそんな言葉戦いをしそうな余裕がなかった。
 水門まで来かかると久野は「さあ水門だ」と敵に先んじて叫んだ。いかなる舵手でも言うに定まっている場所の指示を、敵艇の機先を制して言うのも、一つの戦術であった。早く言った方が晩《おそ》く言った艇より先にその場所へ届いたわけだからである。遅れ馳《ば》せに農科は水門で特別な力漕を十本した。それでまた艇は並んでしまった。後から追いつかれると何だかずっと追いぬかれたような気がするものである。久野の艇は何だかいつもより船脚が遅《おそ》いようであった。窪田は敵の艇を見やってそのピッチを比較しながら、「こんなはずではなかったが」と思った。しばらくするとまた文科の艇がじりじり抜き出した。久野は「この調子で」と叫んだ。農科の艇では沈黙していた。そしてもう渡し場での力漕十本はもうこっちに対して効力がなかった。窪田は半眼でその力漕を見やりながら、やっと安心してピッチを上げ出した。
 洗い場では半艇身以上先んじていた。しかしここでの半艇身ばかりの差では敵のラスト・ヘビーが効《き》けば何の役にも立たない。久野は「あと一分だ。もう死んでもいいぞ」などと激励した。この「あと一分」と言う練習中に用い馴れた言葉が何よりも選手を元気づけた。一分間ならいくらへたば[#「へたば」に傍点]っても漕げるはずなのである。
 皆は疲れて来た。すると不思議に艇がよく出だした。文科の艇は疲れて来ると各個人、癖がとれて、全体としての調子が揃《そろ》うのである。協力がこの時初めて平均した。そして窪田の櫂につれて、おのおのは器械的に身体を前後に動かした。
 農科のラストも実によく出た。しかしそれを見て久野が気遣《きづか》っている間に文科の方のヘビーも非常によく効いた。多年の老練で窪田のピッチがぐんぐん上った。「もう十本!」決勝点に入るま
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