R性をもって、変化はこの後の貨物にあったのであり、それと吾々が比較した諸貨物にあったのではないということを、推断し得るであろう。もしこれらの種々なる貨物の生産に関連せるすべての事情をより[#「より」に傍点]詳細に検討して、靴、靴下、帽子、鉄、砂糖等の生産は正確に同一量の労働及び資本が必要であるが、しかしその相対価値が変動した一個の貨物の生産には、以前と同一量の労働が必要ではないことを吾々が見出すならば、蓋然性は確実性に変じ、そして吾々は変動はこの一個の貨物にあることを確知し、かくてその変化の原因をもまた発見するのである。
もし私が、一オンスの金が、上掲のすべての貨物及びその他の多くの貨物のより[#「より」に傍点]少い分量と交換されることを見出し、更にもし私が、新しいより[#「より」に傍点]肥沃な鉱山の発見により、または機械の極めて有利な使用によって、一定量の金がより[#「より」に傍点]少い労働量によって獲得され得ることを、見出すならば、他の貨物に比較して金の価値の変動の原因は、その生産がより[#「より」に傍点]便利となったこと、すなわちそれを獲得するに必要な労働の分量の減少である、と正当に言い得るはずである。同様に、もし労働があらゆる他の物に比較して価値において大いに下落し、そしてもしその下落が、労働者の穀物及びその他の必要品の生産が大いに便利になったことによって助勢された豊富な供給の結果であることを見出すならば、思うに私が、穀物及び必要品はその生産に必要な労働の分量が減少した結果価値において下落したのであり、かつかくの如く労働者を養うための資料の供給が容易になったことが、続いて労働の価値における下落を伴ったのであると言うのは、私としては正確であろう。否、とアダム・スミスやマルサス氏は言う、金の場合にはその変動をその価値の下落と呼ぶのは正当であったろう、けだしこの際穀物及び労働は変動しなかったからである。そして金は、これらのもの並びにすべての他の物の以前よりもより[#「より」に傍点]少い分量を支配するであろうから、すべての物は静止しており、金のみが変動したというのも正しかった。しかし吾々が価値の標準尺度たるものとして選んだ所の穀物及び労働が下落した時は、それらが蒙ることを吾々が認める所のすべての変動にもかかわらず、かくの如く言うのは極めて不当である。正しい言葉としては、穀物及び労働は静止しており、そして他のすべてのものは価値において騰貴したと、言うべきであろう、と。
さて、私が抗議するのはこの言葉に対してである。金の場合におけるが如く、穀物と他の物との間の変動の原因は、正しく、穀物を生産するに必要な労働の分量の減少であることを、私は発見する、従ってあらゆる正当な推理によって、私は、穀物及び労働の変動をもってそれらの価値における下落と呼び、そしてそれらが比較される物の価値における騰貴ではないと言わざるを得ない。もし私が一週間の間、一人の労働者を雇わねばならず、そして私が彼に十シリングではなく八シリング支払うとしても、貨幣の価値に何らの変動も起らなければ、この労働はおそらくその八シリングをもって彼が前に十シリングで得たよりもより[#「より」に傍点]多くの食物及び必要品を獲得し得よう。しかしこれは、アダム・スミスによって述べられ、更に近くはマルサス氏によって述べられた如く、彼れの労賃の真実価値における騰貴によるものではなく、彼れの労賃が費される物の価値における下落によるのであり、この二つは全く異なるのである。しかもなお私がこれをもって労賃の真実価値の下落と呼ぶのに対し、経済学の真実の原理と相容れない所の新しいかつ異常の言葉を用いるものといわれている。私にとっては異常なそして実に矛盾した言葉とは、私の反対論者によって使用されているものこそそれであるように思われる。
穀物が一クヲタア八〇シリングの時、一労働者が一週間の仕事に対し穀物一ブッシェルの支払を受け、かつ価格が四〇シリングに下落した時、彼が一ブッシェル四分の一の支払を受けるとせよ。更に、彼は、彼自身の家庭内において一週間に半ブッシェルの穀物を消費し、その残りを、燃料、石鹸、蝋燭、茶、砂糖、塩、等々のごとき他の物と交換するとせよ。もし後の場合に彼れの手許に残るべき四分の三ブッシェルが、前の場合に半ブッシェルが彼に齎したと同じだけの上記の貨物を齎し得なければ、――それは実際齎さないであろうが――労働は価値において騰貴したのであろうか、または下落したのであろうか? 騰貴した、とアダム・スミスは言わなければならぬ、けだし彼れの標準は穀物であり、そして労働は一週間の労働に対してより[#「より」に傍点]多くの穀物を受取るからである。下落した、とこの同じアダム・スミスは言わなければならぬ、『けだし一物の価値は、その物の所有が齎す所の、他の財貨を購買する力に依存し、』そして労働はかかる他の財貨を購買するより[#「より」に傍点]わずかな力しか有っていないからである。
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第二節 異る質の労働は異った報酬を受ける。このことは貨物の相対価値における変動の原因ではない。
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(一三)しかしながら労働をもってすべての価値の基礎であると論じ、かつ労働の相対的分量をもってほとんど全く貨物の相対価値を決定するものであると論ずるに当って、私は、労働の異る質を、また一つの事業における一時間または一日の労働を他の事業における同時間の労働と比較する困難を、考慮に入れぬものと考えられてはならない。異る質の労働の評価は、すべての実際的目的のためには十分正確に、市場において速かに調整され、そして労働者の比較的熟練、及びなされたる労働の強度に依存するものである。この準尺は、一度形成されれば、ほとんど変化を蒙らない。もし宝石工の一日の労働が、普通労働者の一日の労働よりも価値がより[#「より」に傍点]大であるならば、それは久しい以前から調整されているのであり、価値の準尺における適当の位置に置かれているのである(註)。
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(註)『しかし、労働がすべての貨物の交換価値の真実の尺度であるとはいえ、それらの貨物の価値が普通これによって測られるのではない。二つの異る労働量の間の比例を確めることはしばしば困難である。二つの異る種類の仕事に費された時間は、単独では、常にこの比例を決定するものとはきまらないであろう。忍ばれた困難や発揮された才能の異れる諸程度が、同様に斟酌されなければならない。二時間の容易な仕事によりも、一時間の困難な仕事に、より[#「より」に傍点]多くの労働があるかもしれない。あるいは通常の誰も知っている事業における一月の勤労に従事するよりも、それを習得するに十年の労働を要する職業に一時間従事する方に、より[#「より」に傍点]多くの労働があるかもしれない。しかし、困難にしろ才能にしろ、それの正確な尺度を見出すことは容易ではない。実際異る種類の労働の異る生産物を相互に交換する際には、ある酌量が普通両者に対してなされている。しかしながらそれは正確な尺度によって調整されているのではなくて、正確ではないが、日常生活の仕事を行うに十分であるという種類の、大ざっぱな平等に従って、市場の駈引によって調節されているのである。』――『諸国民の富』第一篇、第十章(これは誤りである。正しくは第五章である。――訳者註)
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従って、異る時期に同一の貨物の価値を比較する際には、その特定貨物の生産に要した労働の比較的熟練及び強度についての考慮は、ほとんど必要がない、けだし労働は両方の時期において同様に作用しているからである。ある時におけるある種類の労働が、他の時における同じ種類の労働に比較されているのである。もし十分の一、五分の一、または四分の一が附加されまたは減少されたならば、この原因に比例せる結果がその貨物の相対価値の上に生み出されるであろう。
もし今毛織布一片がリンネル二片の価値に等しく、そしてもし十年後に毛織布一片の通常の価値がリンネル四片に等しくなるとするならば、吾々は毛織布を作るにより[#「より」に傍点]多くの労働が必要であるか、またはリンネルを作るに労働がより[#「より」に傍点]少くて足るか、または両方の原因が作用した、のいずれかである、と安全に結論し得るであろう。
私が読者の注意をひこうと欲する研究は、貨物の相対価値における変動の結果に関するものであって、その絶対価値におけるそれに関するものではないから、種々なる種類の人間労働の評価されるその比較的程度を検討することはさして重要ではないであろう。吾々は、種々なる種類の労働の間に本来いかなる不平等があろうと、またある種の手先の技術を習得するに必要な才能、熟練、または時間が、他の種のもの以上にどれだけであろうと、それは一時代より次の時代に引続きほとんど同様であるか、または少くともその変動は、年々に亙って、極めて小なるものであり、従って短期間内では、貨物の相対価値に対しほとんど影響を及ぼし得ないものであると、正当に結論し得るであろう。『労働及び資本の種々なる用途における労賃及び利潤の両者の種々なる率の比例は、既に述べた如くに、社会の貧富、社会の進歩的、停止的、または退歩的状態によって、多くの影響を蒙るものではないように思われる。公共の福祉のかかる変革は、労賃及び利潤の両者の一般率には影響を及ぼすけれども、結局はすべての異れる職業において両者の率に一様に影響しなければならない。従ってそれらの間の比例は引続き同一でなければならず、そして少くともあるかなりの長期間に亙ってかかる変革によってよく変更され得ないものである。』(註)
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(註)『諸国民の富』第一篇、第十章(キャナン版、一四四頁――訳者註)
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第三節 啻に貨物に直接に加えられた労働がその価値に影響を及ぼすばかりでなく、かかる労働を補助する所の、器具、道具、及び建物に投ぜられた労働もまた、そうである。
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(一四)アダム・スミスが述べている初期の状態においてすら、狩猟者をしてその鳥獣を殺すことを得しめるためには、おそらく彼自身によって作られかつ蓄積されたものであろうとはいえ、ある資本が必要であろう。ある武器がなければ、海狸も鹿も殺され得なかったであろう、従ってこれらの動物の価値は、それを殺すに必要な時間と労働とだけによってではなく、狩猟者の資本、すなわちその助力によってそれを殺す所の武器を、作るに必要な時間と労働とによってもまた、左右されるであろう。
海狸を殺すに必要な武器は、それに近づくことが鹿に近づくよりもより[#「より」に傍点]困難であり、従って標準がより[#「より」に傍点]正確であることが必要であるために、鹿を殺すに必要な武器よりも遥かにより[#「より」に傍点]多くの労働をもって作られたと仮定せよ。一匹の海狸は当然に二頭の鹿よりも価値がより[#「より」に傍点]多いであろう。そしてそれはまさに全体としてより[#「より」に傍点]以上の労働がそれを殺すために必要であるという理由の故である。または両方の武器を作るに同一の分量の労働が必要であるが、しかし両者は非常に耐久力が異ると仮定せよ。耐久的な器具からはその価値のわずか一小部分が貨物に移転されるであろうが、より[#「より」に傍点]耐久的ならざる器具からは、それがその生産に寄与する所の貨物に、その価値の遥かにより[#「より」に傍点]大なる一部分が実現されるであろう。
海狸及び鹿を殺すに必要なすべての器具は一階級の人々に属し、そしてそれを殺すために用いられる労働は他の階級によって提供されることもあろう。しかも両者の比較価格は、資本の形成と動物の捕殺との両者に投ぜられた現実の労働に比例するであろう。資本が労働に比して豊富で
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