は利得されるであろう。粗生生産物及びその他の生産物の合計額は増加し、その生産の便宜の増大によって、それは、分量は増加するが、価値は減少するであろう。
二名の人が等しい資本を、――一方は農業に他方は製造業に用いるとせよ。農業における資本は一、二〇〇|磅《ポンド》の年々の純価値を生産し、その中《うち》一、〇〇〇|磅《ポンド》は利潤として手許に保留され、二〇〇|磅《ポンド》は地代として支払われ、製造業における他方は単に一、〇〇〇|磅《ポンド》の年々の価値を生産するに過ぎないとする。輸入によって、一、二〇〇|磅《ポンド》を費した同一量の穀物が九五〇|磅《ポンド》を費した貨物と引換えに獲得され得、そしてその結果農業に用いられた資本が、一、〇〇〇|磅《ポンド》の価値を生産し得る製造業に転ぜられると仮定すれば、国の純収入はより[#「より」に傍点]小なる価値しか有たぬものとなり、それは二、二〇〇|磅《ポンド》から二、〇〇〇|磅《ポンド》に減少するであろうが、しかし啻にそれ自身の消費のための貨物及び穀物の量は同一であるのみならず、その製造品が外国に売られた価値と、そこから購買された穀物の価値との差額たる、五〇|磅《ポンド》が購買すべきだけの附加が、なされるであろう。
さてこれがまさに、穀物の輸入が利益であるかまたはこれを栽培するのが利益であるか、ということに関する問題である。一定の資本の充用によって外国から得られる分量が、同一の資本が吾々をして国内で栽培し得せしめる分量を超過する――啻に農業者の分前に関する分量のみならず、更に地代として地主に支払われる分量を超過する――までは、それは決して輸入され得ないであろう。
マルサス氏は曰く、『製造業に用いられている生産的労働のいかなる等量も、決して、農業におけるが如き大なる再生産を惹起すことは出来ない、と正当にもアダム・スミスによって論ぜられている』と。もしアダム・スミスが価値を論じているのであるならば、彼は正しい。しかしもし彼が、富を論じているのであるならば、――これが重要な点である、――彼は誤っている。けだし彼自身富をもって、人生の必要品、便利品及び享楽品より成る、と定義しているからである。一組の必要品及び便利品は、他の組との比較を許さない。使用価値は何らかの既知の標準によって測定され得ない。それは異る人によっては異って評価されるの
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