私のとらないところであった。
 たとえば今日は百円くらいの売行きはあろうと思っても、夕立その他の万一の故障に備えて、その八掛け八十円だけの製造に止める。したがって毎日早く売り切れてしまうから、中村屋の品は新しいということがお得意にも判り、あの店のものならばと期待してもらえるのである。
 しかし遅く見えたお客に『今日はもう売り切れました』と言って断るのはまことに辛いことであるし、またたしかに惜しい。そこでつい余分に製造するのが人情である。その余分に製造したのが売り切れれば結構だが、三日に一度くらいは売れ残り、これを捨てるのは惜しいというわけで、翌朝蒸し返し、あるいは造り直して売る。いかに精選した原料を用いてあっても、蒸し返しや造り直しでは味が死んでしまっていて、出来立ての品とは較べものにならぬ。客は失望し、その店の信用は漸次失墜する。こんなことは私が言うまでもなく、誰でも判っている筈なのだが、その判っていることを人はやはり繰り返すのである。店員諸子も他日中村屋を離れて自分の店を持つ暁には、こういう迷いに陥らぬよう、いつも内輪目の手堅い商売を目指してもらいたいものである。
 中村屋では生菓子類は午後三時のおやつまでを限りとして売り切れる程度の製造に止めているから、たまたままとまった註文でも来ると、午前中に売り切れとなってしまうこともあって、お客様には不便を掛けてまことに申し訳ないのであるが、このくらいの内輪にしていてさえ、大夕立、大雪などに見舞われると、数十円の生菓子を残すことがある。もっともそんなことは年にまず三、四回あるかないかのものであるから、私はそういう時はその菓子を、日頃世話になる銀行とか郵便局、また育児院などへ寄贈し、どんなにそれが多量でも翌朝へ持ち越すことは決してしない。現在中村屋の繁昌はこうしてあらゆる角度から間違いのないことを期し、新しく良い品を廉く売ることによって招来されたものであって、決して華々しい商略で戦い勝ったというような性質のものではないのである。

 しかしまだここに一つの問題が残っている。いかに見込の八掛けで手がたく構えていたとしても、前日より用意しなければならぬパンの原料が、次の日の悪天候で処分し尽せぬということは時に免れぬものである。この場合これをいかにすべきかと百方苦心したが、今から十年ほど前にその解決策を発見した。すなわち前日仕込んだものを全部パンに製造しては売れ残る恐れありと見るや、その余分だけを「ラスク」(乾パンの菓子)に製するのである。しかしこの場合、その製品たる「ラスク」をどう処分するかが問題で、これには別途の販路がなければならない。当時「ラスク」は市価一斤(百二十匁)七十銭で、相当高級品として上流家庭に需要のあったものであるが、私の「ラスク」はパンの廃物利用として造り出されたのであるから、その値段は一般民衆に得意を見出す程度のものにしたいと考えた。
 そこで「ラスク」の原価調査をしてみると、一斤の原料費が三十五銭、製造費十五銭、卸売費五銭で、合計五十五銭、そこへ小売店の販売差益十五銭を加えて七十銭となっていることが判った。私はこの七十銭の市価に対して、原料費の三十五銭と雑費の五銭を加えて、四十銭で売り出すことに決めた。職人等はそんな安値で売る品物ではないと言って強く反対したが、私は、このラスクは元来がパンの過剰処分であるから、普通の商品並みにすることはよくない。原料代を回収することが出来れば、工場費も燃料も職人の給料も、全然見る必要がないという見解であった。ただこの安値で売ることはラスクの製造販売業者に対して気の毒であったが、私の店では天候急変の日の過剰処分以外には製造しないのであったから、他店に甚だしい迷惑はかけなかったことと思う。
 さて出来上がった数百斤のラスクを店頭に出した成績はというと、非常な歓迎を受け、僅々二、三時間で全部売り切れとなった。爾来十年、大雨大雪の後には、ラスクが出来ているかと言ってわざわざ来店されるお客があるほどで、私の方でも心楽しくこれを店頭に出すことが出来るのである。パンの原料をラスクにするという、これだけなら判って見れば何でもないが、要はそれをいかに売るかの気転にある。

    物価の騰落に処する小売商の覚悟

 大正四年から大正八年までの五年間は、欧州大戦の影響を受けて物価暴騰し、またその後は急落して、昨日の成金は今日その居所をさえ失うという有様で、我々のような小売商の中にも騰落に際し方針を誤ったために、多年の信用を一朝にして失い、閉店倒産したものが少なくなかった。大正四年開戦の当初は諸物価一時下落したが、たちまちにして騰勢に変じ、漸次その勢いを増して今日は昨日より明日はまた今日よりも騰《あが》るというふうで、株式も土地も各種材料も買えば必ず儲か
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