別として、ここに来て会社の製品を買う客の意外に少ないのは、この定価以下の崩し売りが会社自身の売店では出来ないからであって、会社自身の不見識な商策から直営店の繁昌が望まれないことは、皮肉といおうか笑止といおうか、会社でもたしかに困った問題であろう。
 かつて森永が独占的地位を占めていた大正の初め頃、某百貨店が森永の製品を定価の一割引で売り出したことがあった。その時森永ではただちにその百貨店に抗議して、全国幾十万の菓子店の迷惑であるとて譲らず、ついに商品の輸送を停止してしまったことがある。百貨店側では自分の方の利得を犠牲にして客に奉仕するのに製造会社の干渉は受けないという言い分であったが、さすがに権威ある森永は、そんな商業道徳を無視するものの手で我が製品を売ってもらおうとは思わぬ、絶対にお断りするといって、二年間も頑張り通したのであった。
 ちょうどその頃、佐久間ドロップで会社が設立されて、製品が宜《よろ》しかったので私の店でも取引し、販売に尽力した。ところがある日お客から意外な叱言を受けた。
『このドロップは○○(森永製品の輸送を中止された店)では一斤四十銭で売っているのに、貴店で五十銭取るとは怪しからぬ』
 調べて見ると仕入原価が四十二銭、五十銭の売価は不当ではないのだが、他に同じ製品を四十銭で売る店があるとは不思議なことであった。そこで○○百貨店を調べるとまさしく四十銭に違いない。問屋に照会したところ問屋の仕入原価が四十銭、問屋も驚いて会社に厳談に及ぶと、会社の言い分は、
『○○百貨店は毎日六百缶(七斤入り)を現金取引ですから、特別待遇です』
 これでは商業道徳も何もあったものではない。私はただちに佐久間ドロップの販売を中止した。問屋も会社との取引を拒絶した。ここまで来ると会社もさすがにその非を覚ったのであろう、○○百貨店の安売りも間もなく中止されたのであった。
 さてまた森永のことにかえるが、社長森永氏が中村屋を訪問せられた際、私は二十年前、氏が某百貨店に示された毅然たる態度を称賛し、お互いに商売はかくありたいものだというと、氏は憮然として、『その後同業者もいくつか出来まして、競争と自衛上から、今日では売りくずし販売も前のように強くは抑えることが出来なくなりました』と答えられた。そこに自ずから会社の苦心も窺《うかが》われるのであるが、景品付き販売や温泉招待や、やむを得ず行われるらしいこの競争によって無益に失われる莫大な費用を製品の向上に向けられたなら、販売者にとっても購買者にとってもどれほど幸いであろう。私は自分が正価販売をして、確実な商法の喜びを知るとともに、森永明治の二大会社初め他の同業者にも切にこれを勧めるものである。
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 新宿中村屋として

    新宿へ進出の前後と土地の変遷

 本郷中村屋としての我々の第五年はこうしていよいよ順調に進み、よそ目には申し分なく見えたかも知れないのであるが、じつは非常な苦境に立たされていた。その事情は私が新たに語るまでもなく、妻がその著「黙移」の中で詳しく述べているから、ここにはそれを引くことにする。
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 日露戦争の三十七、八年までは、中村屋はまず順調に進んでおりました。どうせパン屋のことですから華々しい発展は望まれませんが、静止の状態でいたことは一月もなく、売行きはいつも上向いておりました。それが小口商いのことですから、店頭の出入りは人目に立ち『あの店は売れるぞ』というふうに印象されたと見えまして、税務署の追求が止まず、ある時署員が主人の留守に調べに来ました。私はそれに対してありのままに答えました。箱車二台、従業員は主人を加えて五人、そして売上げです。この売上高が問題で、それによる税務署の査定通り税金を払ったのでは、小店は立ち行かないのでした。
 それでどこの店でもたいてい売上高を実際より下げて届け、税務署はその届け出の額に何程かの推定を加えて、税額を定めるのでありました。私にはどうしてもその下げていうことが出来ず、ありのままを言ってしまったのでしたから、当時の中村屋の店としては、分不相応な税金を納めねばならぬことになりました。これは何と申しても私一生の失敗であると、いまでも主人の前に頭が上がらないのであります。
 よく売れるといっても知れたもので、一日の売上げ小売りが十円に達した日には、西洋料理と称して店員には一皿[#「一皿」は底本では「一血」]八銭のフライを祝ってやる定めにしていたことによっても、およその様子は解って頂けると思います。ただでさえ戦後は税金が上がりますのに、こんなことで中村屋は立ち行く筈もなく、私のあやまちと申しますか、心弱さと申しますか、とにかく自分ゆえこんなことになったと思い、一倍苦しうございました。
『仕方がない、言ってし
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