ましいが、我が国の如くいまだ一般に日曜休みの習慣なくかえって商売の最も多いその日を休むことは営業上にも宜しくない上に、多数のお客様の便利を考えぬ身勝手な仕方であると思い、これは先生の忠言にも従うことが出来なかった。
 その頃日本橋通りにワンプライス・ショップという洋品店があり、また神田に中庸堂という書籍店があって、どちらも日曜を休みにしていた。私もふだん忙がしい店員に十日目に一日くらいの休みを与えたいと思いながら、それさえ実行しかねていた時であったから、商売の最も多い日曜日の休業を断行しているこの二つの店の勇気に敬服し、なお絶えず注意し、どうなって行くものであろうと見ていた。気の毒なことに私の不安な予想が当って、中庸堂は破産し、ワンプライス・ショップは日曜休みを廃止してしまった。ああ私もあの時理想を行うに急で日曜休業を実行していたとしたら、中村屋も同じ運命を免れなかったに違いない、危いことであったと思った。
 いったい基督教が日本に拡がりはじめた明治の頃は、基督教徒に一種悲壮な頑固さがあった。そういう人々は基督教の精神を外来の形のままで行おうとして、風俗伝統を異にする我が国の実状とその伝統の根強さを無視してかかり、自身失敗するに止まらず、傾倒して来た多くの人々を過まらせた例が世間にじつに多いのである。
 昭和三年に私は欧羅巴《ヨーロッパ》の方へ行って見たが、いうまでもなくそれらの国々は基督教国であるけれども、パリ、ロンドン、ベルリンなどの都市で、我々のような菓子屋が日曜だからとて休業するのは見受けられなかった。欧州でさえこの状態である。時代と共に推移することもあろうし、何によらず型にはまってその通り行わねばならぬとすると、この通り間違いがある。休日問題に限らず、何事にも欧米の慣習を鵜呑《うのみ》にするのは危いと思われた。

    店頭のお客様が大切

 本郷の大学付近は、今は他の発展に圧されて目立たなくなったが、その時分はあれで学者学生の生活を中心に、その時代としての新鮮味を盛り、それらの店の中には本郷の何々といわれてかなり魅力を持ったものがあり、あの辺り一帯なかなか活気のあったものである。ちょうど三丁目の所には旧幕時代からつづいている粟餅屋があって、昔一日百両の売上げがあったという誰知らぬものない名代の店であった。
 私はある日そこへ粟餅を買いに行ったが、店が閉めてある。早稲田大学の運動会に売店を出して全員総出をしたから、店の方は一日休業だということであった。私はその時、この店は必ず破滅するなと直感したが、果たして間もなく閉店してしまった。
 運動会の一日の売上げが平日の幾倍に当り、どれほどの儲けがあるか知らぬが、そのために一日店を閉め切り、当てにしてわざわざ出向いて来て下さる常得意のお客に無駄足をさせる。こんな仕方をすれば多年どれほど売り込んだ老舗であっても、得意の同情を失って破滅に至るは当然である。
 この粟餅屋のような極端な例は別としても、大量の臨時註文というものを持って来られるとなかなか思い切れないものらしく、無理をして引き受けて失敗した例は世間にいくらもある。
 私の方でも店が繁昌し、製品が少し評判になって来ると、学校その他から四時折々の催しにつけて売店の勧誘を受けるようなり、中には前々からの関係で断りにくい場合もあったが、私は店にそれだけの余力がないことを話してお断りし、その他の臨時の註文も店の製造能力から考えて、無理と思われるものは辞退し、いつも地道に店頭のお得意第一と心がけて来た。店も多い中に特に自分のところへ御註文下さるとあっては、たとえ無理をしてもお受けせねばならぬと思うのが人情であり、またせいぜい勉強して先様のお間に合わすということも平常の同情に報ずる道であって、それを思えばつい店員を励まして非常時的努力を試みたくもなるのである。だが人間はそんなに無理の利くものではない。註文の時間に後れるとか間に合わせの品が出来るとかして、とかく不成績に終り、その上店売の製品には手がまわらなくて、せっかく出向いて来て下さったお客様に、あれもございませんこれも出来ませんでしたという不始末になる。人の能力に限りのあることを思えば、かような結果はただちに予想されるのであって、したがって無理は出来ないということになるのである。
 私のところの経験によると、人は緊張すれば一時的には、平常の働きの五割増くらいまでの仕事をすることが出来るが、それ以上を望めば必ず失態を生じ、またその時は何とかなっても、後になって疲労が出て著しく能率を減ずる結果になったりする。もっとも世間には五割増どころか、いざとなれば平日の二倍も三倍もの仕事を無事に仕上げることが出来るという者がある。しかしその人が緊張時において本当に平日の二、三倍の仕事が出来たと
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