たのです。黒光餅、黒光かきもち、かりんとう、駄菓子、塩釜など、いずれも思いついてから数年を費して研究したもので、最近では蜜豆、しる粉なども相当長い時を経てようやく売り出した次第です。にわかに思いつきで店に出したようなものは一種もないというところですが、ただ一つあります。それは毎年晩春の頃柏餅に次いで売り出す葉桜餅です。これは主人が書いている通り、にわかの註文取消しから莫大の損失を招くところを、主人の機智で危いところを救われ、期せずして加えられた記念すべき品です。これぞ禍いを変じて福となした好適例で、長く店にいい伝え、あなた方の心構えに備えたいものです。
 しかしこの葉桜餅は全く異例であって、いつもかように突発的に新製品を出しても売れるものと思ったら、たいへんな間違いです。軽率に店頭に出して一向に顧みられず、やむを得ず後退させるようなことがあれば、それは一代の不面目、あたかも戦いに敗れて兵を退《ひ》くのと同じ恥辱であります。それなればこそ前もって種々の方面から研究し、遺憾なく準備する必要があるのです。よく売れる品には売れるだけの苦心が前に払われていることを、繰り返し言っておきます。

    自分の仕事に自信を持つこと

 先年店員の中に、仕着せの縞物《しまもの》を嫌い、絣《かすり》を自弁でつくったり、あるいは店服のルバシカを脱いで詰襟を借着して学生風を装うものなどがあって、私どもは大いにその不見識を戒め、そんな心がけでは何をしても成功おぼつかないと懇々説き聞かせたことでしたが、こういうことをするのは自分の選んだ職業を恥ずるものと認めなければならない。いやな仕事ならば断然止めて好む道に進むがよいのです。人身の売買など正しからぬことを業とするならばともかく、いやしくも商売に上下貴賤の差別はない。私は自分の仕事を神聖なものとして尊重し、一生をこれに打ち込んで恥じません。

    あくまで独創的に

 私たちは人々から折々妙な質問を受けます。それは『どういう方法で今日の繁栄をかち得たか』『商売のこつを教えてくれ』などと言われるのですが、いつも返答に窮し、あまりに世間の人の心持のちがいを知らされて、何ともいえぬ淋しさを感じます。
 私たちは最初からどうすれば繁昌するかなどと考えて商売に着手したのではない。もし私たちが商家に生れて、いわゆる商法に通じて家業を継承したのならば、あるいはこの質問に対して答える用意があったかもしれないが、私たちの発足はそれとはまるで違うのですから、コツなんていうものは全く知らない。しかしなおも答を求められるならば『私たちは全くの素人でしたから世間の伝統によらないで、自ら前人未踏の茨の道を大胆に開拓しました。素人だから本格的な商人の真似をせず、いっさい独創的に思いのままに仕事をして迷わなかった。今日はただその独創をもって貫いた結果というだけで、何が当った、こういうことで成功したなどとお話し出来るものは何もありません』と。しかし今一つ加えなければならぬことがあります。それは『金を儲けようとして商売をしなかったこと』です。
 中村屋で修業した人で、現在独立して店を持ち、相当にやっている人もかなりあって、非常に結構なことと喜んでいますが、中村屋の真の精神を会得している人は甚だ稀れです。人真似はいけない、何事も独創でなければならないことを中村屋の経営によってよく知っている筈なのに、さて独立して見ると他店を真似ないまでも、主人のしていることを形だけそっくり真似ているのです。中村屋式というのは人の書を額にして掲げ、その書に何らか背景のあることを示し、それをよりどころとするようなものではありません。自己の性格を生かして、あくまでも独自の道を歩むことであるのをまだ心づかないのはどうしたことかと思います。
 いついかなる場合でも正しきところに立ち、商人として充分おとくいの立場にもなって、なるべく薄利で商うようにすれば、志あれば道ありで、自ずからいかにすべきかを会得するでしょう。

    月給袋を入れる時

 我が中村屋では、いわゆる規則なるものを設けず、よかれあしかれ何事につけても主人対店員の間で解決し進行して、長い間いささかも不都合がなかったのでしたが、近年事業の拡張とともに人員増加し、したがって大小の事件頻々として起り、秩序が失われて思いもよらぬ弊害があらわれるようになりました。やむを得ず、私どもの最も嫌いな規則を立てて統制するという、まことに悲しい現象を見るに至りました。『こういう小むずかしい規則は昔はなかったのに』と、当時店員たちの間で不平の声がきかれたのも無理からぬことであります。
 最近に至っては出勤時間を記入する設備さえ出来て、機械そのものが正確に出勤時間を記入するので、庶務係に向かって時間の割引をせよなどと文句
前へ 次へ
全59ページ中58ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
相馬 黒光 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング