添えることに致しました。
 いったい店の歴史などと改っていうと、たいそう大袈裟に聞えます。けれども国に歴史あり家に父母祖父母の思い出があるように、どんなに微々たる一商店にもそれ相当の、後々へ語り継ぐべき苦心の物語があるものです。
 あなた方は学校で歴史を学び、一国の興亡、一族の栄枯盛衰、戦いの勝敗に、みなみなきっと多くの興味を感じたでしょう。その同じ興味をあなた方はやがて商業の世界、商店の栄枯の中に見出すようになるでしょう。平家にあらざれば人にあらずと全盛を誇った平家はどうしてあのような悲惨な最後を遂げましたか、それと同じ疑問がじきに商売の方にも見えて来ます。ある店は千客万来の大繁昌で、全店員一生懸命の働きをしても間に合わぬというのに、ある店では堂々たる店舗を構えながら門前|雀羅《じゃくら》を張るが如しという不景気、また一族相率いていわゆる上り身代となって富み栄えると見れば、次には眷属《けんぞく》ことごとく没落の一途を辿り四方に離散する。いったいこれはどういうわけであろうか。どうすれば栄え、どうすれば衰えるのであろうか。その興廃の原因と結果とがはっきりと判ることによって、初めて自分の心構えと経営方針が確立されるのです。目の前に現れた結果は誰でも見ますが、大切なのは結果とともにその過程を見ることです。すなわち歴史を尊重する所以《ゆえん》です。歴史に暗く、方針の定まらない人は羅針盤を失った船のようなもので、前進どころかたちまち怒濤に押し流されて、ついに船体は転覆するほかありません。
 さて歴史のお講釈は止めにして早速お話に移りましょう。一通り順序を立てて主人の話のあった後ですから、私は断片的にいろいろのエピソードを拾って、中村屋の今昔を偲ぶことにしましょう。

    四畳半と三畳

 主人がこれまで機会のあるごとに話している中村屋創業時代の店員|長束実《ながつかみのる》は、忠実で研究心が深く、その他なかなかよいところのある少年でした。その頃小店員を呼ぶのに名前に「どん」をつけたものです。どんは殿を略したもので、この呼びようには何となく家族的な親しみと、階級を超越した平等観念も含まれていて、それまでにそういう経験を持ったことのない私は、何どんと呼ぶ時にわかに自由な明るい感じと、一種のあたたかさ懐しさを覚えたものです。それゆえ今も私が思い出すのは実《みのる》ではなく、みいどんなのです。
 さてこの実《みのる》のみいどんは、どうしてか生れつきたいへんな煙草好きで、自分でもこれには全く困っていました。彼はクリスチャンの家庭に生れ、教会はもちろん、中村屋としても成年未満のうちは法度の煙草を、こればかりはどうもならずあの善良なみいどんが、人目を偸《ぬす》んでこっそりと喫っていたのは気の毒でした。
 人にはなくて七癖、みいどんにはもう一つ朝寝坊の癖がありました。その頃店員の室というのはやっと四畳半一間で、その中に六、七人が寝るのでしたから、夏の夜などとても暑苦しくて床に入れません。一人残らず夜露がしっとりするまで往来に床几を出して腰をかけているか、どこを当てともなくぶらついて戸外で涼を入れる。その留守の間にみいどんは一人さきに戻って来て、疲れた四肢を思う存分伸ばして、ぐっすり寝こんでしまうのです。そのうち一人帰り二人帰りしていつか寝床がなくなると、最後に帰ったものはみいどんをそっと抱え出してブリキ屋根の上に移して寝かせ、そのあとに割り込んで寝ました。翌朝みいどんは朝風に顔を吹かれて眼がさめるか人に呼び起されて、初めて自分の寝ているところに気がつき、寝た間のことを知るというふうで、当人の寝坊にも呆れましたが、私はそれより大勢を四畳半に寝かせる辛さが身にしみました。
 さて私たちはどうしていたかというと、昼なお暗い階下の三畳、そのまた一枚の畳は破れ箪笥と、先代から譲られた長火鉢が据っており、その前をすれすれに勝手兼工場と店との通路なので、正味のところ二畳だけが主人と安雄(当時二歳)と主婦の居間であり、寝室でもあれば食堂客間ともなってこの上なしの単純生活、いながらすべて弁じられて調法でもありましたが、その窮屈さはあなたがたにもよく想像してもらえるでしょう。
 けれどもその狭いことを誰も格別不平を申しませんでした。昔火事は江戸の花といって、半鐘がじゃんと鳴るとすぐ飛び出して火事場を見に行く、その勇ましさ景気のよさは今の東京人にはもう想像も出来ますまい。ある夜半鐘が寝しずまった町の静寂を破って鳴り出しました。遠方は一つばん、隣りの区は二つばん、区内は三つばん、近火ならば摺りばんといって、けたたましくじゃんじゃんじゃん続けざまに鳴るのでした。その夜は三つばんでしたから区内ではありましたが、昼間疲れていることではあり、一ぺん頭はもたげて見たが、『何だ三つば
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