に、雇われることの嫌いな人間が、妙なことで至って不面目な給金取りの経験をした。それは札幌市内の桑園という土地で、信州出身の金子氏の家に客となっているうち、北海炭鉱会社の社長が、大邸宅を営造するに際し、大木を他から移植するために、三十人の臨時雇いを金子氏が頼まれた。ところがその人夫は二十九人まで出来て、あともう一人が急のことで間に合わない。そこで金子氏が折入っての頼みで、私はそこへ顔だけ出すことになった。むろん何の役にも立ちはしない。大木の後に取りついて、大勢と一緒にヤーと掛け声をするだけで、日給三十銭也の分配に預ったのである。当時札幌では手不足のため、どんな無能の者でも顔さえ出せば三十銭から三十五銭の手当をもらえたもので、この臨時雇いを出面取りといっていた。すなわち面さえ出せばよかったのである。当時の三十銭は今日の二円くらいに当る。とにかく六十九歳の今日までに、私が人から給金をもらったのは、後にも前にもこの時の三十銭限りである。

 郷里に帰って私は養蚕の研究をした。当時生糸の海外取引は非常な勢いで、年々増加するばかりであった。したがって養蚕は盛んで、これまで下々の下国といわれた信州も、養蚕でにわかに一王国を出現したかの観があった。しかし養蚕の方法に至っては、これに関する書もすでに百種くらい現れていたが、大同小異、特にこれはと敬服されるものもなかった。そして残念なことに私がこれらの書物によって教えられた養蚕は失敗が多く、期待していてくれる家人に対しても毎度面目ないことであった。私はこの不充分な研究書に愛想をつかしながらなおも良書を探していると、福島県の人半谷清寿氏著の「養蚕原論」があらわれ、私はこれを見て初めてここだなと肯くところがあったのである。
「養蚕原論」にヒントを得た私は、改めて根本的に研究し直すことを思い立ち、それから西は遠く丹波まで、また北に東に名のある養蚕地を訪ねて見学し、福島県では菅野、丹治、群馬では深沢、田島等の諸氏を訪問して直接教えを受け、その他多くの古老に質し、他方実地の研究も進んで確信を得たので、これを著述し、「蚕種製造論」と題して、田口卯吉氏の経済雑誌社から出版したことは前に述べた通りだ。(菊版百九十頁、定価五十銭、明治二十七年二月発行)
 ついで「秋蚕飼育法」(四六版八十頁、定価十五銭)を著し、友人竹沢章氏の蚕業新報社より発行したが、これは五万部も売れて、あれを読んでお蔭で好結果を得たといって礼状もたくさん来たし、わざわざ遠く九州辺りから私のところへ講習を受けに来た人も少なくなかった。私はその後養蚕から全く離れてしまったが、今でも養蚕の話を聞くと旧友に会ったようななつかしみを感ずるのである。

 蚕種製造家として郷里に落着くとともに、私の周囲には自然近辺の青年たちが集って来るようになった。都会に憧れ、新しい知識を求めてやまぬ田舎の若者たちにしてみれば、私が東京の学校を卒業して帰ったというだけで充分興味があったのであろう。私はこれらの青年に基督《キリスト》の話をし、禁酒をすすめた。若者たちはみなよく聴いてくれて、彼らはついに畑仕事の間にもふところに聖書を入れているまでになった。
 信州は維新当時廃仏毀釈の行われた所であるだけに、外来の新宗教の入り易い点があった。近村にはすでにメソヂスト派の牧師がおり、土地で名の知られている青年三沢亀太郎氏もすでに信者になっていた。私はこの三沢氏とともに牧師を援けて伝道演説をするようになり、寒い夜でも彼方の村此方の村と集まりに出かけて、ずいぶん熱心に説きまわった。また禁酒会を起し、会員数十名に上り、自分がその会長になった。これには内村鑑三先生や山室軍平氏なども応援演説に来会され、心から共鳴する青年が続々とあらわれて、中でも第一に殉教的熱情を示したものに井口喜源治氏があった。
 井口君は中学校での同級生で、当時穂高小学校の首席訓導であったが、彼の信仰はついにその教え子に及び、荻原守衛その他の生徒が信者になった。最初冷静に見て居った校長もこれに驚き、生徒が学校に来て基督教になるようでは父兄に対して相済まぬというわけで、井口氏を他校に転任させようとした。そこで井口氏の辞職となり、我々友人は井口氏を他村に送るに忍びず、また学校の態度にも憤慨したので、村の有力者臼井喜代氏や長兄安兵衛その他の有志と力を合わせ、新たに井口氏を推して研成義塾を設け、町村とは全く独立した高等科の単級教授を開始したのである。時は明治三十一年の秋、私も井口氏も同じ二十九歳であった。

 さて井口君はこの研成義塾を守って、去る昭和七年の十月病いを得て退くまで、じつに三十五年間全く一日の如く奮闘した。村の子供の多くは穂高小学校の尋常科を終るとそのままそこの高等科に残り、特に理解のある家の子弟だけが研成義塾に入っ
前へ 次へ
全59ページ中42ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
相馬 黒光 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング