、それまで開業以来ずっと無料配達のサーヴィスをしていたものであった。私の経験によると店頭売りの場合には店員一人で一日百円の商いをすることはさほど困難でないが、近まわりのお得意だけでもお届けすることになれば、その三分の一すなわち一人が三十円を売るだけのことも容易ではないのである。
また遠方までお届けすることになると、さらに三倍くらいの時間と労力とを要する。そこで小店員一人の日当を二円と見ると、店頭売りの場合はその人件費も売上げの百分の二にすぎないが、近隣配達には百分の六となり、遠方配達にはじつに百分の十八となって、ほとんど利益の全部を配達のために失うこととなるのである。
しかもこの百分の十八は、自転車や電車によった場合の計算であって、近頃のように配達の敏速を希望して自動車を用いることになると、さらに費用は倍加し、売上金高の三割以上を割《さ》かれることになる。自動車はフォード級の普通車を使用してすら、その買入費の消却と、その金利と税金、運転士給料、車庫料、消耗品とガソリン代等を合算すれば、一日当り平均十二、三円となる。中村屋の経験では自動車の配達能力は一台一日六十三軒のレコードもあるが、一ヶ月を平均すれば二十四、五軒にすぎないから、これに十二円を割り当てると、一軒当りの配給費はまさに五十銭である。それゆえ御註文品の金高があまりに小さい時はお断りするほかないことになる。現在百貨店が配達網を八方に布《ひ》き、また遠方には配給所を設けて、専らその合理化につとめていても、なおその費用の莫大なのに当惑しているときくが、まことにさようであろうと案ぜられる。
しかし一般個人店では、まだそれほど配達の必要少なく、したがって経費に悩まされた経験がないため、遠方からの註文に接すると店の光栄として、僅少の品でも喜んで配達するようであるが、もし詳細に計算したならば、利益以上の経費を負担して損失となっている場合が多いことと思う。
私が欧州を視察したのも早や十年の昔となったが、パリ、ロンドン、ベルリンなどの都市で、牛乳が我が一合当り邦貨三銭であった。当時日本では一合五銭ないし十銭、平均七銭というところであったから、物価の高い欧州に来てどうして牛乳だけがこう安いのかと不審に思うたことであった。しかし調べてみるとあちらでは牛乳はほとんど軒並みの需要で、しかも一戸当りだいたい一リットル(五合五勺)という好条件であって、各自近傍の得意を守り、遠方への配達をしない。少し離れたところに住むと、毎朝こちらから買いに出かけねばならぬのであった。私はこれを見てなるほどと思った。これだから配達費がごくいささかで済み、その安値で売って成り立つのであった。僅か一合の牛乳を遠方まで配達する日本の牛乳屋の不合理がいっそうこれで肯かれたのであった。数字にして比較して見ると、
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欧州 日本
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一人の配達およそ一石 一人の配達およそ一斗
(リットル入り百八十本) (一合入り百本)
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円
原価 (一升二十銭) 二〇・〇〇 (一升二十銭) 二・〇〇
一人の給金 五・〇〇 二・五〇
計 二五・〇〇 四・五〇
売上げ(一合三銭) 三〇・〇〇 (一合七銭) 七・〇〇
差引収益 五・〇〇 二・五〇
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牛乳のようなものでは、配達料は経営費の大部分を占めるのであるから、この費目の軽減を計ることが経営上最も必要なことであった。そこで中村屋も開業以来の無料配達を改め、現在のように規定したのである。
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一、近隣以外はことごとく配達料を申し受けること、但し牛乳は近隣といえども大瓶(二合五勺)三銭、小瓶(一合一勺)二銭の配達料を申し受ける。
二、旧市内は電車賃往復分十四銭を申し受ける。郊外電車も同様で、乗換接続の場合は、双方の合計を申し受ける。
三、金額五円以上の御註文はサーヴィスとして旧市内無料、但し郊外で電車賃十五銭以上の所は十四銭を差し引き、残額だけを申し受ける。
四、配達は午前午後と各々一回とし、午前の分は前九時までに、午後の分は正午までに御註文を受けること。
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右の通り実行して今日に至ったが、お得意でもよく理解し賛成して下さって、無料配達廃止の当初からきわめて好成績に行われて来たのはまことに喜ばしいことであった。すなわち配達料を申し受けるようになって以来、配達を望ま
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