かけて行って、露西亜料理や露西亜菓子を味わい、初めてそのうまさに驚いた。すなわち喫茶部開設に当って、カリー・ライスに対し露西亜のスープであるボルシチュを加えることにしたのである。
 エロシェンコは常にルバシカを着ていた。我々はそれを見て洋服よりもはるかに便利でかつ経済的であることを知り、店の制服として採用したのであった。有名なトルストイ伯も常にルバシカを愛用したと聞いている。
 今日でこそルバシカは珍しくもないが、中村屋で採用した当時はずいぶん目に立ち、ロシヤ服を着ているという廉《かど》で店員が警察に引き立てられたことなどもあった。
 エロシェンコの退去問題で警察と中村屋の間に一騒ぎあったことは「黙移」にも記されているが、私もまたここに自分のおぼえを書いておこう。それは大正十年五月のことである。警察が私の家からエロシェンコを引き立てようとした時、私は彼の保護者としての立場から当局と折衝して、『今日はすでに日没後でもあり、かつ行政処分は夜中に執行すべきものでもないから待ってもらいたい。明朝八時、私が彼に付き添って警察に出頭します』と保証したにもかかわらず、警察ではその夜の十時過ぎ、三十二名の警官が隊をなして私の家を襲い、この一盲人を引致し去った。その際警官隊の行動は狼藉を極め、争って屋内に闖入《ちんにゅう》し、私や妻の室まで土足で踏み荒し、言語道断の暴れようをして行った。
 私は警察の不法に驚き、忠良なる日本臣民としてこれを許しておけることでないと思った。私は滅多に怒らないが、この時は真に公憤を発したのである。
 翌早朝淀橋署の刑事主任が来て、前夜の無礼を陳謝し、署長も恐縮して、後刻お詑びに来るからという。私は署長が真に反省してあやまりに来るのならば、将来をよく戒めて公の手段を取ることは見合わせようと考えた。しかし署長はとうとう顔を出さず、この事件の始末に対し全く誠意のないことが知れた。
 そこで私は、警察官が乱入した際に落して行った眼鏡や手帳などを証拠品として、淀橋署長を相手に家宅侵入の告発をした。弁護士や友人たちは、警察を相手取っての訴訟は将来営業上に何かと祟られて煩《うる》さかろうから、思い止ってはどうかと忠告してくれたが、私はそういう意味で泣き寝入りする者が多く、ためにいっそう官憲の横暴が高まるのであると考えたので、多少の犠牲は覚悟の上で断然出訴したのであった。
 その結果は、淀橋署長|黒葛原《つづらはら》氏の辞職となった。私もそれ以上の追及は気の毒と考えたので出訴を取り下げ、三十二名の警官たちに対しては、彼らはただ署長の命令で行ったまでのことであるから、別に問題としなかったのである。
 黒葛原《つづらはら》氏は去ったが、幸いにして私の真意は警察側に通じ、怨恨を残すどころか、これによって警察と中村屋は事件前よりかえって理解を進めた形となった。真剣に対立して見て初めて誠を感じ合ったというものであろう。
 警察側がただ一人の盲人を連れ行くために、夜中三十二名の警官を動員したなどは全く常識の沙汰でないが、これはボース事件の記憶からこのたびも私がエロシェンコを匿しはせぬかとの疑念から出たものであったろう。しかしそれとこれとは全然問題の性質が異い、エロシェンコに対しては私は最初から国法に服従せしめる方針をとり、その態度は自ずから明白であったのである。ただ警察は疑心暗鬼にとらわれたのであって、思えば黒葛原氏も気の毒なことであった。
 ボース事件も、この黒葛原氏が麻布署長の時代であったというが、同氏と中村屋とはよくよく因縁が深かったものだと思う。

    月餅の由来

 月餅も支那饅頭もこの頃では世間に広く行き渡ったが、私は先年支那に旅して初めてこれを味わい、支那みやげとして売り出したものであった。
 私が妻と支那見学に赴いたのは、昭和二年十月、ちょうど新宿に三越支店が乗り出して来た秋であった。当時支那は張作霖の全盛時代で、幣原外相の軟弱外交に足下を見透かされてか、日本人は至るところで馬鹿にされていた。私が奉天北京間の一等寝台券二枚を求めると、その一人分の室は満州兵のために横領され、我々両人はその一夜を寝ずに過ごさねばならなかった。もっともこんな目に遭ったのは我々ばかりでなく、白耳義公使が北京郊外の明の十三陵見物に行って、匪賊《ひぞく》のために素裸にされた事件もこの当時であった。
 そんなわけで、我々がぜひ見たいと思って行った大同の石仏も、そちらはことに危険だからと留められて、ついに見ずじまいで帰って来たが、北京では坂西閣下や多田中将(当時中佐)の斡旋で、宮殿も秘園も充分に見学し、僅かな日数ではあったけれど、とにかく老大国の支那というものの風貌に接することが出来たのは幸いであった。
 この北京見物においても私の興味を惹いたのは、北京
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