絶対の信頼をもって先生の教えに服していたこと、まことに不思議なほどであった。かの有名な栃木鎮台田中正造翁もその一人であったが、翁はこの二十歳も年少な岡田先生を評して、
『聖人とはこの方のことでしょう、古来支那に孔子出で、印度に釈迦あり、猶太に基督《キリスト》が生れ、聖人はみな外国にあって、まだ我が日本には出なかったのであるが、今度こそは我が国にも聖人が生れました』
 と言い、崇敬措かなかったものである。私などは先生のような大人物を評価するなど思いも及ばぬことであるが、かつて聖書で、基督の徳を慕うて集まった数百人の男女が、ホザナよホザナよと讃えつつ村から村へと続いたというところを読んで、これは後世信者が基督の徳を誇張してこのように書いたものであるとのみ考えていたことを思い、ああ見なければ解らぬものだ、現にこういう事実が眼の前にあるではないか、聖書にある基督のことも決して誇張ではなかったのだと感じ入ったほどで、実際岡田先生の静坐会に参加する人々、またどこまでもと先生の後をついて歩く人々は、雲の如くであったと言っても過言でない。
 先生は当時、もの淋しい日暮里駅の上にある本行寺という寺の本堂を朝々の静坐道場としておられたが、どんな寒い冬の朝でも道場は暗いうちから満堂立錐の余地なく、後《おく》れたものは廊下の板の上に坐っていた。この朝の静坐が済んでから、毎週二回、我が中村屋でも第二の会が催され、ここにも毎回十数人の人々が集まり、約十年ほども引きつづき行われたのであるが、惜しいかな、先生は大正九年の十月十七日に急逝せられた。
 岡田先生は何事でも三段論法で断言されるのであったが、私に教えて言われるには、『商売を繁昌させるのは難かしいことではない、良い品を廉《やす》く売ればよろしい』
 わかり切ったことのようであるが、先生はこの鉄則を私に教えられたのであった。すなわち「良い品を廉く」を店の標語《モットー》として中村屋は今日に至ったのである。
 さて「良い品を廉く」というと、そこに連想されるものは薄利多売であるが、私は必ずしも多売を目的としなかった。良い品のその「良い」ことを落さぬためには、常に製品を内輪に見積って、どんなことがあっても翌日にまわるような売れ残りを拵えてはならない。すなわちここが大切の思い切りどころであって、多量に製造して販売能力の精一杯まで当てにするという方針は
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