があるが買わないかという話で、渡りに舟と私は早速その所有主真上正房氏に会い、交渉すること僅か十五分間で、建物四棟と借地二百六十坪の権利を三千八百円で買約した。それがすなわち現在中村屋の地で、今日から見ればこれを手に入れたことは全く得難き幸いであった。明治四十二年春のことであった。
さていささか余談にわたるが、私が新宿に来たこの前後数年間が、あの辺の地価権利などの変動の最も激しかった時で、新宿変遷史の一端ともなるであろうから、少しその当時の状況を述べておこう。
私に今の場所を売ってくれた真上氏は、それより三年前にこれを他から五百五十円で買い取ったものであった。それを私は三千八百円で譲り受けたのであるから、この土地は三年間に七倍となったわけで、当時の田舎くさい新宿にじつはもうこれだけの景気が動いていたのである。さらにこの三千八百円の場所は三十年後の今日、地上権一坪平均千円として二十六万円、すなわち七十倍という躍進ぶりである。
また同じ真上氏は現在住友銀行支店となっている場所を、三十八年に一坪十円で買ったところ、五ヶ月後には十五円で売れた。さらに一ヶ月後にはこの十五円の地を浅田という人が三十円で買った。これなどは僅か六ヶ月の間に三倍となったのである。この浅田氏の浅田銀行が代って現在の住友銀行になった。
また私が最初権利なしで二十八円の家賃で借りた家から現在のところへ移ることが知れると、六百円くらいの権利金なら出すからという希望者がたくさん現れた。しかし私は缶詰の知識を私に与えてくれた豊田氏の御子息が、その希望者の一人であったので、一ヶ年半の間に私が家主に支払った家賃の四百二十円でこの人に譲った。つまり一ヶ年半を無家賃で住んだことになったのである。
しかしまさか新宿が今のようになろうとは誰しも予測し得なかったから、ある友人などは私が三千八百円という大金をこんな場末に投げ出すくらいなら、四谷の方に相当の所があるではないか、こんな所はよせと言って忠告したもので、実際その時分は四谷塩町付近が山の手銀座と称されて、市内屈指の繁栄地であった。幸いにして私の見込は違わなかったが、いろいろこうして思い出して見ると、じつに今昔の感が深い。
新宿駅は明治四十年にはまだ今の西武電車の発着所の所にあって、やっと四間に八間くらいの至って貧弱なものであった。それが急に拡張することになって
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