すれば、それは平日充分の能率をあげていなかった証拠であって、それこそ大いに研究を要するところである。
この特別勤労の五割増も、精いっぱいの働きからさらに五割の力をしぼり出せるというのではなく、平日の働きが自ずから調和のとれた働きである時に初めてそれだけの緊張を予想することが出来るのであって、解りやすい例でいえば、一様に何時間労働という中にも、米国の工場における八時間は、機械が主になっていて、人は機械に従い、機械につれて速力的に働かねばならぬのであるから、自主的の労働と大いに趣きを異にし、常に緊張そのものであらねばならない。そうして彼方ではこの緊張した労働の限度を八時間としているのであって、日本のまだそれほどに機械化しておらぬ我々商店の労働をこれに較べると、彼の八時間はこれの十二時間とほぼ匹敵するであろう。それゆえ一週に一日くらいは大いに緊張して平日の五割増くらいの仕事をするのに困難はなく、したがって翌日の仕事にたいして影響するほどのこともない。それゆえ臨時の仕事を引き受ける場合は平日の五割増程度に止め、それ以上欲張ることは慎しまねばならない。
ゆえに能率が平均して向上するのでなければ、店の売上げが全体的には増加しても、最高最低の差が甚だしくては経済的にはかえって安心出来ないのであって、高低の差の少ないことが最も望ましい。理想としては売上げが毎日平均し、したがって店員の働きも平均されるのをもって上々とする。しかし商売はお客様次第、こちらでどんなに平均しようと望んでも、売れる日と売れない日があり、平均の成績は望むべくしてじつはとうてい得られるものでないが、せめて平日を基準として最高五割増、最低三分の二を下らぬよう経営の安全を計るべきである。
日露戦役当時の思い出
ここにまた日露戦争当時、軍用ビスケット製造の話がある。日露の戦端が開かれた明治三十七年は、私がパン屋になって第三年目、ようやく少し経営にも道がついて、おいおい自家独特の製品を作り出そうと研究怠りなき頃であった。国内は軍需品製造で大小の工場が動員され、軍用ビスケットの製造に都下の有力なパン屋が競って参加し、一時非常な景気を呈した。納入価格はたしか九銭二厘であったと思うが、平均一店一日の製造高が五千斤にも上るという状態であったから、その利益はおよそ一割と見て毎日四十五、六円を下らぬ計算であった。
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