あるいはこの質問に対して答える用意があったかもしれないが、私たちの発足はそれとはまるで違うのですから、コツなんていうものは全く知らない。しかしなおも答を求められるならば『私たちは全くの素人でしたから世間の伝統によらないで、自ら前人未踏の茨の道を大胆に開拓しました。素人だから本格的な商人の真似をせず、いっさい独創的に思いのままに仕事をして迷わなかった。今日はただその独創をもって貫いた結果というだけで、何が当った、こういうことで成功したなどとお話し出来るものは何もありません』と。しかし今一つ加えなければならぬことがあります。それは『金を儲けようとして商売をしなかったこと』です。
 中村屋で修業した人で、現在独立して店を持ち、相当にやっている人もかなりあって、非常に結構なことと喜んでいますが、中村屋の真の精神を会得している人は甚だ稀れです。人真似はいけない、何事も独創でなければならないことを中村屋の経営によってよく知っている筈なのに、さて独立して見ると他店を真似ないまでも、主人のしていることを形だけそっくり真似ているのです。中村屋式というのは人の書を額にして掲げ、その書に何らか背景のあることを示し、それをよりどころとするようなものではありません。自己の性格を生かして、あくまでも独自の道を歩むことであるのをまだ心づかないのはどうしたことかと思います。
 いついかなる場合でも正しきところに立ち、商人として充分おとくいの立場にもなって、なるべく薄利で商うようにすれば、志あれば道ありで、自ずからいかにすべきかを会得するでしょう。

    月給袋を入れる時

 我が中村屋では、いわゆる規則なるものを設けず、よかれあしかれ何事につけても主人対店員の間で解決し進行して、長い間いささかも不都合がなかったのでしたが、近年事業の拡張とともに人員増加し、したがって大小の事件頻々として起り、秩序が失われて思いもよらぬ弊害があらわれるようになりました。やむを得ず、私どもの最も嫌いな規則を立てて統制するという、まことに悲しい現象を見るに至りました。『こういう小むずかしい規則は昔はなかったのに』と、当時店員たちの間で不平の声がきかれたのも無理からぬことであります。
 最近に至っては出勤時間を記入する設備さえ出来て、機械そのものが正確に出勤時間を記入するので、庶務係に向かって時間の割引をせよなどと文句
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